京都怪異譚 その23『明智藪 ~光秀、終焉の地』

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日本史上、屈指の大事件

「敵は本能寺にあり!」 毛利攻めを行っていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)への援軍を命じられ、備中高松城に向けて進軍していた明智光秀率いる約13,000の軍勢は、山城国(現:京都)と丹波国(現:兵庫県)の境を越えた沓掛(くつかけ)の辺りに差し掛かったところで、突然、その進路を京の都に変えました。向かう先は、中国地方の制圧のために上洛していた織田信長が宿泊している本能寺。これが日本史上、屈指の大事件と言われる「本能寺の変」の始まりです。

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1582(天正10)6月2日のまだ夜が明けきれない頃、明智光秀は京都の本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃しました。そして、逃げ切れないことを悟った信長は焼け崩れる本能寺の本堂の中で、自刃したのです。

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謎多き人物、明智光秀

光秀は信長の重臣のひとりであったにも関わらず、主君を討伐するというクーデターを起こしたことで、その名を世に広めた人物です。今に於いても、“下克上”や“謀反”と言えば、光秀の名が出るほどですが、実は謎の多い人物なのです。

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光秀は戦国時代の武将、明智光綱(あけち みつつな)の子とされています。出生年は不明で、青年期には美濃の斎藤道三や越前の浅倉氏に仕えたとも言われていますが、それを示すものは何もなく、信憑性に欠ける、まさに不透明と言える人物なのです。

光秀は信長を襲撃した後、その足で、二条城に逃げ込んだ信長の嫡男で、後継者の織田信忠(おだ のぶただ)に攻撃を仕掛けました。信忠は予想外に善戦したそうですが、所詮、多勢に無勢。結局は、信忠も自刃し、命を絶ったのでした。

このように光秀が企てた「本能寺の変」は、結果的にその後の日本の歴史を大きく変えることになるわけですが、結局のところ、信長も信忠も、光秀の手によって殺害されたのではなく、自刃によるもので、しかも、信長と信忠の遺体はどこにも見つからず、また、この大事件を引き起こした光秀の動機もはっきりしていないということから、“日本史上、最大級の謎”とされる出来事となったのです。

光秀の三日天下

クーデターを成し遂げた光秀は、今後の戦に備えて、娘婿の細川忠興(ほそかわ ただおき)とその父の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)、そして、親交のあった戦国大名・筒井順慶(つつい じゅんけい)に加勢を願いましたが、結局は断られてしまいます。

その頃、高松城を包囲していた豊臣秀吉は信長の死を知るなり、すぐに抗戦中の毛利氏と講和を結び、大急ぎで京都に向かいました。これが世に云う「中国大返し」です。この大胆な行動は秀吉の信長に対する忠義によるものですが、まさかそんなことをするとは誰が予測したことでしょう。

そして、本能寺の変から11日後の6月13日、秀吉は織田信孝(おだ のぶたか)や丹羽長秀(にわ ながひで)らと共に、京都の山崎で光秀に合戦を仕掛けました。これが有名な「山崎の戦い」です。

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その結果はと言うと、押し寄せる秀吉の大軍の前に、光秀の軍は撤退を余儀なくされ、敗北に喫しました。光秀はすぐさま馬に跨がり、近江の坂本城を目指して、山崎から逃亡を謀ったのです。

信長を討って天下を取った途端、10日余りで秀吉に討たれた光秀。これが権力を握った期間があまりにも短かったことから、短い期間を意味する“三日”を用いて、「三日天下」と呼ばれた所以です。

あっけない光秀の最期

小雨が降る中、光秀ら13騎は縦一列になって、坂本への道をゆっくりと進んでいました。一団が山科から小栗栖(おぐるす)に入り、鬱蒼とした竹藪に差し掛かった、その時! にわかに竹藪がザワザワッと音を立てると、そこから竹槍を持った落ち武者狩りの百姓(光秀を襲ったのは、信長の近臣であった小栗栖館の武士集団・飯田一党という説もあります。)が飛び出してきて、前から6番目にいた光秀の脇腹に、その竹槍を突き刺したのです。

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馬から転げ落ちた光秀のもとに家臣たちは駆け寄り、介抱しようとすると、光秀は苦しみながらも『順逆二門ナク、大道心源二徹ス、五十五年ノ夢、覚メ来ツテ一元二帰ス』という辞世の句を残し、家臣の溝尾茂朝(みぞお しげとも)に介錯させ、絶命したのです。

このように光秀は思いもよらぬ出来事で、あっけない最期を遂げたわけですが、その終焉の地が竹藪であったことから、戦国武将・明智光秀の名をとって「明智藪(あけちやぶ)」と呼ばれるようになったのです。

今も残る、数々の不気味な話

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この「明智藪」には、雨の降る日に明智藪を通ると、どこからともなく軍勢の雄叫びが聞こえてくるとか、竹を切るとケガをするとか、震えが止まらなくなるなど数々の不気味なことがあって、それはすべて“光秀の祟り”だとされました。

明智藪の中に、竹が生えない小さな空き地があるのですが、地元ではその空き地のことを“ワタ出”という妙な呼び方をしています。それは、脇腹に刺さった竹槍を渾身の力を振り絞って引き抜いた時に、その弾みで光秀の腹から血と内臓(ワタ)が地面に飛び散ったと言われていますが、それが光秀の怨念となり、血と内臓が飛び散った周辺の竹は腐り、それ以降、その場所には竹は生えなくなったそうで、今でも空き地になっているのです。

また、明治維新の頃までのことだそうですが、明智藪には、普通の竹に混じって、真っ赤な色の葉を付けた竹が無数に生えていたとも言われています。光秀の怨念は、本当に凄まじいものだったようですね。

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首と胴体を別々に葬られた光秀

光秀の死後、その首は一度、本能寺に晒されますが、その後、首は東山の知恩院の近くに、胴体は山科の勧修寺の近くにそれぞれ埋められ、祀られています。

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明智藪…、今も雨が降る真夜中になると、光秀の鎧が馬に揺られてガシャガシャと鳴る音が藪の中から聞こえてくることがあるそうです。光秀は今もなお、追っ手から逃れるために、逃亡し続けているのでしょう。

本能寺:京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 TEL : 075-231-5335

明智藪:京都市伏見区小栗栖小阪町

光秀の首塚:京都市東山区三条通白川橋下ル東側梅宮町

光秀の胴塚:京都市山科区勧修寺御所内町

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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