京の七不思議 その12『大仏七不思議』

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秀吉ゆかりの社寺がある地域

京都・東山区にある京都国立博物館。その北側に隣接する地に豊臣秀吉にゆかりのある2つの社寺があります。それは、秀吉が祀られた「豊国神社(とよくにじんじゃ)」と、秀吉によって創建された「方広寺(ほうこうじ)」。

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方広寺はかつて“大仏殿”と呼ばれ、現存していれば奈良・東大寺の大仏を凌ぐ大きさの大仏が安置されていたお寺ですが、そのことから、この地域に伝わる不思議を「大仏七不思議」と呼ばれています。今回は不思議に満ちた「大仏七不思議」について話をしましょう。

大仏七不思議とは!?

大仏七不思議:その1「烏寺」

豊国神社から少し西に行ったことろに「専定寺(せんじょうじ)」という小さなお寺があります。1200年初期に専定法師によって開創されたお寺で、通称「烏寺(からすでら)」と呼ばれています。表門を入ったところに烏の絵が彫られた石標が立ち、屋根には烏の姿を模った瓦があって、見るからに何か“カラス”に深い関係がありそうですが、この専定寺にはそのカラスに関する、あるひとつの伝説が残されています。

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その昔、専定が松の木陰で休んでいると、どこからともなく2羽のカラスが飛んできて、その松の枝にとまりました。すると、その2羽のカラスが突然、囁きだしたのです。驚いた専定は耳を澄ませ聞き耳を立てると、『今日は蓮生さまが極楽往生される日だね。私たちもそろそろお見送りに行かないと…』と話していました。そして、2羽のカラスは熊野権現の姿に変わり、南の空へと飛び去って行ったのです。

「蓮生(れんしょう)」とは鎌倉時代初期に活躍した武将、熊谷直実(くまがい なおざね)のことで、『平家物語』では平敦盛を討った武将として、高潔な描かれ方をされている人物ですが、本当はそういった感じの人物ではなかったようです。この人、実は元々は源氏側の人間だったのでが、平治の乱の時に、内輪揉めになり、同僚から侮辱を受けたということで、源氏から出て、平家側に鞍替えしました。ところが、源平の動乱で平家の戦況が危なくなってくると、また源氏に出戻ったという、優柔不断な、ちゃっかりした人物だったようです。直実はその後も、源氏の陣営を転々として、最期まで生き残りました。

動乱が終わり、世の中が平穏になった頃、直実は京都にやって来ました。そして、1206(建永1)年に「自分は来年の2月10日に死ぬ」と予言しました。そして、死を予言した当日。直実は「今日、往生する予定だったが、それは延期することにする」と発表したのでした。この延期宣言は当然ながら、京都中の物笑いの種になったそうです。まぁ、そらそうでしょうね…。それにしても熊谷直実という人物は、かなりいい加減な男だったようですね。

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ところが、そんな直実に神様が天罰を与えたのかどうかはわかりませんが、専定が聞いたカラスの不思議な予言通りに、直実は、本当に死んでしまったのです。カラスの話を聞いた専定は、これも何かの因縁だと思い、その松の木があった場所に草庵を結び、それが専定寺の起こりとなったと言われています。

このカラスの話は、おそらく直実が死んだ後に、作られた話だと思いますが、もしそうだとしたら、こういった話が作られるほどに、直実の“予言の延期”は京都の人々の間で呆れ果てられたことだったのでしょうね。

大仏七不思議:その2「耳塚

方広寺から約100メートルほど西に、「耳塚(みみづか)」または「鼻塚(はなづか)」と呼ばれる、高さ7メートルほどの墳丘があります。“耳”や“鼻”と聞くと何かグロテスクな感じがしますが、その名の通りで、この塚には塩漬けにされた人間の耳や鼻が埋められているとされています。

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16世紀末に豊臣秀吉が率いる軍は朝鮮半島に侵攻した「文禄・慶長の役」(1592~98)の際に、多くの朝鮮の人たちを虐殺しました。その戦功の証しとして遺体から耳や鼻をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰り、この地に埋めたのだそうです。その耳と鼻の数はなんと12万6千人分! その後、供養として土盛りをし、その上に五輪の石塔を建て、塚として今に残されています。ご存知の通り、この戦争は秀吉の敗退に終わりましたが、この「耳塚」は、戦争による朝鮮の人たちの受難を後世に伝える歴史の遺訓になっているのです。

ところで、気になることがひとつ。それはこの「耳塚」が不思議のひとつに数えられていることです。歴史的事実であれば、不思議とするのはどこか妙なこと…。実は、この「耳塚」には江戸時代から“本当は何が埋まっているのか?”という疑問があったそうです。そして、この耳塚は徳川幕府が豊臣家を貶めるためのプロパガンダして捏造されたものではないかと…。また、この塚は元々は「御影塚(みえつか)」と呼ばれ、京都の大仏を鋳造した後の土を埋めた場所だったという説もあるようです。“みえつか”が次第に訛って“みみづか”になった…。確かにこれもありそうな話ですよね。真実は如何に!

大仏七不思議:その3「泣き石」

かつての方広寺は東山七条一帯を寺域としていたようで、かなり敷地の広いお寺だったようですが、それを物語る遺跡が巨石で作られた石垣です。現在、残っている石垣だけでもずーっと国立博物館まで続いているので、それだけでも方広寺の敷地が如何に広大だったかがわかります。

この石垣は、豊臣家の栄華が偲ばれる遺跡のひとつで、秀吉が配下の大名に命じて運ばさせたものだと言われているのですが、その石垣の北の外れにある、一際巨大な石が「泣き石」と呼ばれる伝説の石です。

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この石が「泣き石」と呼ばれる所以は諸説あるようですが、まずは、この巨石には白い筋があって、それが涙を流しているように見えるためだとされる説。また、この石は加賀の前田利長が秀吉の機嫌をとるために奉納したものとされていますが、その重量が余りにも重く、運ぶための経費が酷くかさんだために、その金銭的負担に利長が泣いたためとされる説。そして、その石の重さに人夫たちが泣きながら運んだためとされる説。あるいは、夜になると石が加賀に帰りたいと泣き続けたという、如何にも伝説らしい説もあるようです。

普通、「泣く」というのは労役や課税で苦しめられる民衆であることが多いですが、大名が泣いたという説はなかなか面白いですね。

大仏七不思議:その4「淀君の幽霊」

方広寺の鐘楼にある釣鐘は高さ4.2m、外径2.8m、重さ82.7tもある巨大な銅鐘で、知恩院、奈良の東大寺と並んで日本三巨鐘のひとつに数えられています。

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この鐘は秀吉の子である秀頼によって鋳造されたとされていますが、鐘の表面に「国家安泰(こっかあんたい)」と「君臣豊楽 子孫殷昌(くんしんほうらく しそんいんしょう)」の文句が刻まれています。今もその文句を見ることが出来ますが、この2つの文句が、豊臣家が滅亡に至る「大坂の陣」の切っ掛けになったと言われている、歴史において重要な鐘なのです。

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秀吉の死後、豊臣家滅亡の機会を伺っていた家康の側近が、「国泰」を家康の“家”と“康”が離れていることから、これを“家康の頭と胴を切り離す”と介錯して、徳川家の分裂祈願だと言い、「君臣楽」は豊臣家の反映を願ったものだとして、豊臣家は徳川家の滅亡を願っていると家康に入れ知恵をしたと言われています。言い掛かりもいいところですが、戦国の時代にはこういうことがよくあったようです。

その鐘の内側には、今も秀吉の側室であった淀君(茶々)の姿が薄らと浮かんでいるのだそうです。淀君は1615(慶長20)年の「大坂夏の陣」で大阪城は落城した折りに、息子の秀頼や家臣と共に自害したと言われていますが、云われなきことで死に追いやられた淀君の家康に対する怨みは今も消えずに残っているということなのでしょうか…。

大仏七不思議:その5「唐門の三羽鶴」

豊国神社の本殿正門にある総けやき造りの唐門は、西本願寺、大徳寺の唐門と並んで、「国宝の三唐門」のひとつとされています。元々は伏見城の城門だったそうなのですが、伏見城の廃城となった後、二条城に移され、次に南禅寺の金地院へ、そして、今ある豊国神社へと移されました。

日本古来の建築物は、解体が出来る構造になっていて、移築されることはよくあったようですが、使えるものは古いものでも使うという“もったいない精神”というか、エコ的な発想は昔からあったのですね。

この唐門は、桃山時代に作られたものだけに絢爛豪華な装飾が施されており、扉や欄間など至るところに彫刻が置かれています。この唐門にある彫刻は、すべてかの有名な左甚五郎の作なんだそうです。

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門の上の方に三羽の鶴の彫刻があるのですが、よく見ると、この三羽の鶴には目がありません。左甚五郎ともある人が目を入れ忘れるはずはなく、敢えて目を入れなかったと言われています。その理由は、目を入れると鶴が飛び去ってしまうからだそうです。

京都や全国に、左甚五郎作の彫刻が数多くありますが、その中でも生き物の彫刻には、夜になると歩き出したとか、踊り出したとか、飛び去ったといった言い伝えが残されていますが、それほど左甚五郎が彫る作品は当時としてはリアルだったということなのでしょうね。

大仏七不思議:その6「石川五右衛門の隠れ家」

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天下の大泥棒、石川五右衛門。有名な歌舞伎の演目『桜門五三桐(さんもんごさんのきり』では、石川五右衛門は南禅寺の三門を隠れ家としていたと描かれていますが、実際は五右衛門が活躍した時代には、焼けた南禅寺の三門はまだ修復されていませんでした。つまり、三門の上で「絶景かな、絶景かな…」と大見得を切ったとか、三門を隠れ家として住んでいたということはすべてフィクションなのです。では、五右衛門はどこに隠れ住んでいたのでしょうか? それは言い伝えによると、方広寺の門前にあった「大仏餅屋」という餅屋(米屋?)に隠れ住んでいたと言われています。

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五右衛門はその餅屋の裏庭にある土蔵に毎日入って、伏見城の下まで地中を掘り進め、そこから城内に忍び込んだそうです。五右衛門のお目当ては、秀吉が大事にしていた名香炉「千鳥」。ところが、部屋を物色している最中に殿中の侍に捕らわれて、“釜茹での刑”に処せられ、命を絶ったのです。

ところで、五右衛門の隠れ家は、この「大仏餅屋」とは別にもうひとつありました。それは、方広寺から西に100mほどのところにあった両替屋(質屋という説も)で、その屋根裏の壁に小さな穴を開けて、そこから秀吉が建てた方広寺の様子を伺っていたと言われています。五右衛門は天下の大泥棒と言われたわりには、地中を掘ったり、壁に穴を開けたりして、その風貌に似つかわしくない地味なことをしていたんですね。

大仏七不思議:その7「赤牛の影」

豊国神社の南東300mほどのところに「智積院(ちしゃくいん)」というお寺がありますが、これはそこに残された不思議な話です。

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ある日のことです。商人が赤牛に荷物を曳かせて智積院の門前に差しかかったところ、突然、赤牛がへたり込んで、動かなくなってしまいました。慌てた商人は赤牛に「こらーっ!動けーっ!」と叫びながら、鞭で何度も叩いたところ、驚くことに、赤牛が爆発してしまったのです。赤牛の肉片と血は飛び散り、智積院の白壁にべったりと張り付いてしまいました。その壁はいくら洗っても、肉片と血の痕は消えず、上から壁を塗り直しても、しばらくすると、その壁に赤牛の姿が浮かび上がってきたと言われています。赤牛が爆発するところまでは、漫画チックな展開ですが、その後はグロくて、気味の悪い話ですね。どこまでが本当のことかはわかりませんが…。

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方広寺:京都市東山区正面通大和大路東入ル茶屋町527-2 TEL : 075-561-1720

豊国神社:京都市東山区大和大路正面茶屋町530 TEL : 075-561-3802

智積院:京都市東山区東大路七条下ル東瓦町964 TEL : 075-541-5361

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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