大覚寺 ~華やかな王朝文化が薫る門跡寺院

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室町時代の初期、天皇中心の公家政治に戻そうとする古い力と、武家政治を推し進めようとする新しい力が約60年間に渡って争い続けた時代がありました。古い力とは、後醍醐天皇が奈良吉野に建てた朝廷である南朝。そして、新しい力とは、足利尊氏が京都に建てた朝廷である北朝のことで、この時,日本には朝廷が2つ出来てしまったのです。南朝と北朝ということで、この時を敢えて“南北朝時代”と呼ばれていますが、その南北朝時代に、「嵯峨御所(さがごしょ)」と呼ばれ、北朝との争いに終止符を打つ講和会議が行われたお寺が、「大覚寺(だいかくじ)」です。今回は、御所の佇まいが今も残る「大覚寺」の話をしましょう。

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大覚寺の前身と、その起源

嵐山の渡月橋から北へ1kmほど離れた嵯峨野に、真言宗大覚寺派の本山「大覚寺」があります。正式名称は「旧嵯峨御所大覚寺門跡」。“門跡”とあることからも分かるとおり、歴代天皇や皇族が住職に就かれた格式の高い寺院です。

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太秦を拠点としていた豪族の秦氏によって開かれたとされる嵯峨野は、風光明媚であることから古来より天皇や貴族たちの行楽の地となっていました。その嵯峨野に平安時代の初期、嵯峨天皇が檀林皇后(だんりんこうごう)とのご成婚の新居として「離宮嵯峨院」を建立されましたが、この嵯峨院が大覚寺の前身です。

嵯峨天皇は唐の新しい文化を日本に伝えた僧侶たちを重んじ、その代表と言える真言宗の開祖・弘法大師空海と親交が深く、度々、嵯峨院を訪れた空海と、お茶を楽しんだり、中国留学の話をしたそうです。その縁から、空海は離宮内に五大明王像を安置するお堂を建て、加持祈祷を行ったことが大覚寺の起源とされています。

心経写経の本山

818(弘仁9)年、都に大飢饉ととも疫病が大流行し、多くの人が亡くなりました。その状況に為す術もなく、心痛めた嵯峨天皇が空海に助言を求めると、空海は「般若心経」の写経を嵯峨天皇に勧めたのです。

嵯峨天皇は早速、空海の進言通り写経を始めますが、この時、嵯峨天皇は「一字三礼(いちじさんらい)」という、礼節を尽くした作法で書写されたと言われています。般若心経の本文は262文字で構成されていますが、「一字三礼」とは、1文字書くごとに両手、両足、額を3回、地面に投げ伏して書くという作法です。当時、最高地位にある天皇が額を地面につけるなどは考えられないことですが(もちろん、今でもそうですが)、それほどに嵯峨天皇は、人々を疫病から救いたいという気持ちが強かったということなのでしょう。

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その後、天皇の願いは成就し、疫病は治まったと言われています。大覚寺が「心経写経の本山」と言われるのは、この出来事が由縁になっているのです。

嵯峨天皇自らが書いたとされる般若心経は、60年に1度しか開封できない“勅封心経”として、今も大覚寺の御影堂の裏手にある勅封心経殿に安置されています。

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嵯峨天皇が842(承和9)年に崩御すると、それから30数年後の876(貞観18)年に、嵯峨天皇の皇女(長女)で、淳和天皇の皇后であった正子内親王(まさこないしんのう)は嵯峨院を「大覚寺」と改めました。そして、自分の息子(淳和天皇第2皇子)の恒寂入道親王(ごうじゃくにゅうどうしんのう)が初代住職に就任したことから「大覚寺門跡」と呼ばれるようになったのです。

現存する日本最古の人工池

広大な敷地を持つ大覚寺は、その境内の全域が国指定史跡になっており、ご本尊の五大明王を祀る「五大堂(ごだいどう)」や、嵯峨天皇、恒寂入道親王、後宇多法皇、弘法大師空海などの大覚寺の歴史に大きく関わった人物の尊像を祀った「御影堂(みえどう)」、後宇多法皇が院政を執った部屋がある「正寝殿(しょうしんでん)」など、門跡寺院に相応しい、風格のある建物が数々あります。

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そして、境内の東には唐風文化の面影を今に残す、「大沢池(おおさわいけ)」が広がっています。大沢池は周囲1キロほどもある大きな池で、嵯峨天皇が中国の洞庭湖(どうていこ)をモデルにして築造されたことから、「庭湖(ていこ)」とも呼ばれています。

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かつては大沢池から北へ約100メートルほどのところに「名古曽滝(なこそのたき)」と呼ばれる小さな滝があって、そこから流れる水を貯め、大沢池が造られたと言われており、人工で造られた池としては日本最古なのだそうです。今は滝が存在したことを示す石碑が立っているだけですが、小倉百人一首でも知られる藤原公任(ふじわらのきんとう:大納言公任)は名古曽滝の流れを想いながら、次のような和歌を詠んでいます。

『滝の音は 絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ』(ここ大覚寺にあった滝の水の音が聞こえなくなって随分、長い年月が経ってしまったが、その滝の評判だけは世の中に流れ伝わり、今でも聞こえ知られているよ)

この公任の歌からは名古曽滝がどのような姿だったかは想像できませんが、風情のある美しい滝だったことは間違いなさそうですね。

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時代劇と生け花でも知られる大覚寺

大沢池は時代劇のロケ地としてもよく使われる場所です。各所に撮影ポイントがあって、長谷川平蔵(中村吉衛門)の『鬼平犯科帳』や中村主水(故・藤田まこと)の『必殺仕事人』、徳川吉宗(松平 健)の『暴れん坊将軍』など数々の作品の撮影がここで行われました。池の周囲は西に大覚寺の伽藍があるだけで、他の方角には高い建物が一切ないために、余計なものが映らないということが、時代劇の撮影には何かと都合が良いのでしょう。

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また、この大沢池は生け花のひとつの流派が生まれた場所でもあります。

嵯峨天皇は、空海と橘逸勢(たちばなのはやなり:遣唐使として唐に渡った官人及び書家)とともに「三筆(さんぴつ:平安時代初期の著名な3人の能書家)」のひとりに数えられるほど書に優れ、美的・芸術的な分野への造詣が深く、草花などの自然に対する愛情も豊かだったと言われています。

その自然を慈しむ精神から生まれたのが、華道の一派である「華道嵯峨御流(かどうさがごりゅう)」です。大沢池の周りに自生していた野菊(嵯峨菊)を嵯峨天皇が活けたことが始まりとされており、大覚寺が「華道嵯峨御流」の発祥の地ということで、勅使門の近くの境内には「華供養塔」が建っています。4月15日が嵯峨天皇の命日にあたることから、大覚寺では毎年4月中旬に法要として、華道嵯峨御流の最大の催しである「華道祭」が行われます。

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紫式部も絶賛した大沢池の月

日本三大名月観賞地のひとつ、大沢池。(因みに、他2つは奈良県・猿沢の池、滋賀県・石山寺) 毎年、中秋の名月の頃に、池に龍頭舟や鷁首舟(げきすぶね)などを浮かべて月を愛でる催し『観月の夕べ』が開かれます。

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紫式部が記したとされる日記『紫式部日記』には、“嵯峨野の月はとても素晴らしく、その中でも特に素晴らしいのが大覚寺にある大沢池の月である”と書かれています。文化人として名高い嵯峨天皇が過ごした嵯峨離宮の華やかりし王朝文化が今も薫る大覚寺で、京都の風雅を感じてみるのもいいかもしれませんね。

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大覚寺:京都市右京区嵯峨大沢町4 TEL : 075-871-0071

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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