京の七不思議 その20『慈照寺(銀閣寺)の七不思議』

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東山文化を代表する臨済宗の塔頭

東山三十六峰のひとつ、京都の夏の風物詩である五山の送り火の大文字で知られる如意ヶ嶽の麓に、俗称・銀閣寺の名で親しまれている「慈照寺(じしょうじ)」があります。

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「古都京都の文化財」のひとつとして世界文化遺産に登録されている慈照寺は、1482(文明14)年、室町幕府8代将軍・足利義政が応仁の乱で焼けた浄土寺の跡地に西芳寺を模して造営した東山山荘(東山殿)が始まりです。

1490(延徳2)年に義政が亡くなると、遺言により東山山荘は臨済宗の僧・夢窓疎石を開山に迎え、相国寺派の禅寺に改められました。この時、義政の法名・慈照院殿喜山道慶に因んで、寺号を慈照寺としたのです。

相国寺の塔頭寺院である慈照寺にはどのような不思議があるのでしょうか? 今回は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなった慈照寺に伝わる七不思議の話をしましょう。

慈照寺(銀閣寺)の不思議とは!?

慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その1「銀閣寺垣」

緩やかな上り坂の石畳の道を進むと西向きの小さな門が見えてきます。この門が慈照寺の入り口となる総門(そうもん)です。

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有名なお寺の総門にしては簡素な門ですが、その総門を潜ってすぐを右に折れると、そこに石垣の上に更に樹木による垣を巡らせた参道が南へと続いています。まるで樹木の壁に挟まれた細い路地のような雰囲気のする参道ですが、その樹木の垣が「銀閣寺垣(ぎんかくじがき)」です。

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銀閣寺垣は総門から中門に至る約50メートルの間に設えられた生け垣で、椿(つばき)、梔子(くちなし)、山茶花(さざんか)、樫(かし)などの樹木で組まれています。

整然とした作りは、まるで生け垣で迷路を作るヨーロッパの古典主義庭園のようでもありますが、その高さ5メートルほどもある生け垣によって作り出された空間に一歩入った途端、外界の喧騒から遮断され、厳粛さと静けさに包まれた参道はあたかも現世と浄土の世界を結ぶアプローチのような雰囲気を醸し出します。

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本来、寺院の防衛的な役割があったと考えられている銀閣寺垣は、もしかすると、訪れる者を浄土を模した東山殿へ誘う、足利義政の心憎い演出なのかもしれませんね。

慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その2「向月台と銀沙灘」

銀閣寺垣に挟まれた参道を進み、今度は左に折れると目にするのが白砂の盛り砂です。富士山のような円錐状の砂盛りが「向月台(こうげつだい)」、そして、その向月台の手前に広がる白砂の表面に直線の縞模様が引かれた壇状の盛り砂が「銀砂灘(ぎんしゃだん)です。

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向月台と銀砂灘は義政の時代からあったものではなく、江戸時代初期に建物や庭が改修された折りに造られました。これらはどういった目的で造られたものなのか、その理由は分かっていないのですが、向月台も銀砂灘も「月」に関係したものではないかと言われています。

現在の向月台は、高さ約180cm、頂上部の直径は120cmありますが、歳月が経つと共に形状が変化していて、もともとはお椀を伏せたような形だったのが、人の手によって修正されることで徐々に高くなり、今のように富士山を思わせるような形になったのだと言われています。摩訶不思議なものですが、これは単なる庭のオブジェではなく、人が頂上の部分に座って、義政が名付けた正面の山「月待山(つきまちやま)」から月が昇ってくるのを待つための、言わば展望台のようなものだと考えられています。向月台の上に座って、月を眺めている様子を想像すると些か滑稽ではありますが、それは月を愛でるための最高の贅沢だったのではないでしょうか。

中国の西湖をイメージしているとされる銀砂灘は背の高い向月台があるために、一見すると平地に見えますが、厚みが65cmあります。

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盛り砂には向月台と同じ「白川砂(しらかわすな)」と呼ばれる京都特産の砂が使われています。この白川砂は反射率が高く、月の光を反射して方丈を淡く照らす効果があると言われています。江戸時代の初めに間接照明的な発想があったとは驚きですね。

ところで、現代美術家の故・岡本太郎氏は向月台と銀砂灘という白砂の造形に驚きと興味を持っていたそうです。岡本氏はこの盛り砂の形は今までの日本美学にはなかった形で、幾何学的でありながら、何とも言えない非合理的な表情をたたえた、いわゆるモダンアートにしか見られない美しい形態だとし、「私の発見した喜びの、もっとも大きなもののひとつだった」と絶賛しています。岡本氏は京都の社寺の庭園の多くに失望したそうですが、どうやら向月台と銀砂灘には魅了されたようですね。

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慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その3「東求堂」

3代将軍足利義満が築いた北山山荘(鹿苑寺金閣)を代表する、公家文化と武家文化が融合した華麗な美しさを求めた“北山文化”。その北山文化とは対照的に、8代将軍足利義政が東山山荘(慈照寺銀閣)を代表する、公家・武家・禅僧の文化が融合した侘び・寂びの美しさを重んじた“東山文化”。その東山文化を生み出す舞台となったのが「東求堂(とうぐどう)」です。1486(文明18)に義政の持仏堂(自身が信仰する仏像や先祖の位牌を安置しておくお堂)として建てられた東求堂は、その後の日本建築に多大な影響を及ぼした建物だと言われています。

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現存する最古の書院造りとされる東求堂の名は、仏教の経典である中国禅宗の第六祖・慧能(えのう)の説法集である「六祖大師法宝壇経(ろくそだいしほうぼうだんきょう)」の一節、“東方の人、念仏して西方に生まれんことを求め、西方の人、念仏して何れの国に生まれんことを求むや”に由来しています。このことからも、義政は西方極楽浄土への願望があったことが伺えます。

東求堂の内部は、阿弥陀三尊を安置した持仏堂、北向書院、西向床、四畳の間に分かれています。その中の北向書院は“同仁斎(どうじんさい)”と呼ばれる四畳半の小座敷で、その名は中国・唐を代表する文人・韓愈(かんゆ)の言葉“聖人は一視同人(聖人は人を上下隔てなく愛する)”に由来しています。相国寺の禅僧、黄川景三(おうせん けいさん)と相談して選んだそうですが、義政はなかなかの博学だったようですね。

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この北向書院は「最古の茶室」だと考えられており、現在の茶室の原型とも言われています。通常は非公開ですが、春や秋の季節に特別拝観が行われることがありますので、それを狙って訪れてみては如何でしょうか。一見の価値はありますよ。

慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その4「袈裟型手水鉢」

お寺や神社に訪れると必ず手水鉢(ちょうずばち)を目にします。もともとは神様や仏様の前で、口をすすぎ、体を清めるための水が入った器のことですが、時代とともに自然石に窪みを空けて、そこに水を入れ、庭などの露地に置かれるオブジェ的な要素が濃いものへと変わり、蹲(つくばい)と呼ばれる独特の様式を作り出しました。

手水鉢には、侘び・寂びなどの茶道の精神を具現化し、野趣を重視した自然石で作られた「自然石手水鉢」や、古くなったり、壊れてしまった灯籠や塔を再利用して、わざと古びた風合いを出す「見立てもの手水鉢」、そして、オブジェとしてデザイン化された「創作手水鉢」があります。現在、お寺の庭などで見られる手水鉢の多くは「創作手水鉢」で、慈照寺の「袈裟型手水鉢(けさがたちょうずばち)」も、「創作手水鉢」に分類されています。

方丈(本堂)と東求堂(とうぐどう)をつなぐ渡り廊下の傍らに置かれている手水鉢は、江戸時代になって作られたもので、花崗岩でできています。その手水鉢の形状は立方体で、その側面には市松模様のようなデザインが施されおり、それが僧侶の袈裟の模様に似ていることから「袈裟型手水鉢」と呼ばれています。

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その意匠が斬新であることから人気があり、「銀閣寺型」とも呼ばれ、同じ形の手水鉢が多く造られました。因みに茶聖と称せられた千利休も袈裟型の手水鉢を好んだとされ、茶道界ではよく知られている手水鉢なのです。

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慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その5「錦鏡池と龍背橋」

東山三十六峰の第10峰・月待山を背に、銀閣(観音殿)の前に広がる池泉回遊式庭園。その中心となるのが「錦鏡池(きんきょうち)」と呼ばれる池です。龍背橋(りゅうはいきょう)はその錦鏡池を東西に二分する位置に架けられた石橋です。実は現在の慈照寺の庭園は足利義政が造った創建当初のものではなく、江戸時代に改修された庭園です。

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義政が最も愛した庭は、世界文化遺産にも登録されている「西芳寺(さいほうじ:通称・苔寺)の庭だと言われています。西芳寺には「西芳寺十境(さいほうじじゅうきょう)と呼ばれる、自然との繋がりを重んじた10の景観があります。“十境”とは天台摩訶止観に由来する言葉で、空間を意味します。義政はその西芳寺十境を模して「東山殿十境」を造りました。その十境とは、東求堂・心空殿(しんくうでん)・超然亭(ちょうねんてい)・西指庵(せいしあん)・釣秋亭(ちょうしゅうてい)・弄清亭(ろうせいてい)・太玄関(たげんせき)・龍背橋(りゅうはいきょう)・夜泊船(よどまりぶね)・錦鏡池。このうち、現存しているのは東求堂・心空殿・龍背橋・弄清亭・錦鏡池の5つです。

慈照寺の庭園は、作庭の名手と謳われた夢窓疎石が1339(暦応2)年に造営した西芳寺の庭園に倣って、義政が寵愛した山水河原者(せんずいかわらもの)の善阿弥一族に造らせました。庭園は平地に錦鏡池を中心とした池泉回遊式庭園を築き、その裏山に巨大な滝を表現した枯山水庭園を築くという上下二段構成で、義政の浄土信仰、蓬莱神仙思想が表現されています。

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義政は作庭にあたって、20回近くも西芳寺の庭園を訪れているようですが、そこまでして西芳寺の庭園を再現したかった理由は、自分の母親のためだったのです。

当時の西芳寺は女人禁制で、実際の庭を母親に見せることはできませんでした。義政は母親に西芳寺の庭を見せたいという一心で、慈照寺を造営し、西芳寺の庭園を模した庭園を造ったのです。義政自ら作庭指導をしたとも言われており、本物の西芳寺の庭に劣らない、見事な美しい庭園が完成しました。

『わが庵(いほ)は月待山の麓にて かたぶく空の影をしぞおもう』

義政が1482(文明14)年から、その命が尽きる8年もの間、全精力を注ぎ込んだ慈照寺の庭園は今も訪れる人たちを虜にしています。

慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その6「諸候石」

錦鏡地を見渡すと、池の中に石がいくつもあって、そのうちの3つには「座禅石」「大内石」「浮石」と書かれた駒札が立っています。この数々の石は「諸候石(しょこうせき)」と言って、諸大名によって献上された、いや、献上とは聞こえはいいですが、義政が大名たちから奪い取ったものなのです。

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義政は正室・日野富子との間に生まれた次男の義尚(よしひさ)に将軍職を譲り、隠居すると、応仁の乱が収まった後の1482(文明14)年に、延暦寺の末寺である浄土寺の墓地だった場所に東山山荘の造営を始めました。義政はそれまでに培ってきた美意識を集約させて、自分が思い描く浄土の世界を造ろうとしましたが、応仁の乱の後の荒廃した世の中において建築資材の調達が困難だったため、半ば無理やりに多くの大名や寺院に木材や石を献納させたのです。わざわざ駒札まで立ててあるので、何か由緒ある石なのかと思われるかもしれませんが、「諸候石」は大名たちから奪い取った石の名残だったのです。

慈照寺(銀閣寺)の七不思議:その7「観音殿(銀閣)」

銀閣寺垣に挟まれた参道の先にある中門を潜ると、慈照寺を代表する建物、観音殿(かんのんでん)が見えてきます。

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北山文化を代表する鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿「金閣」と建物の形状が似ていることから、「銀閣」という名で知られていますが、「銀閣」と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからのことのようです。

観音殿はその外観からもわかるように、2層の構造になっていて、下層は書院造りに、上層は禅宗仏伝造りと異なった造りになっています。観音殿は現存する唯一の室町期・東山文化を代表する楼閣庭園建築だと言われています。

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下層は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれる居室、そして、上層は「潮音閣」と呼ばれる観音菩薩を安置した仏間で、この観音菩薩があることから、この建物は「観音殿」と呼ばれています。ただ、この正式名称である「観音殿」も、「慈照寺」と同様にあまり知られておらず、この観音殿を“銀閣寺”と言われることがよくあるようでが、“金閣寺”と同様に“銀閣寺”は俗称なのです。では、何故、銀閣寺という名称が広く知られるようになったのでしょう。

それは、比較される鹿苑寺の舎利殿(金閣)に金箔が貼られているために、単純に観音殿にも銀箔が貼られていたのでは?と考えられたからです。ところが、それを解明すべく科学的調査を2007(平成19)年に行ったところ、銀箔が貼られた痕跡は何ひとつ検出されませんでした。

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義政が東山山荘を造営した当時は、長く続いた応仁の乱の後、世の中は疲弊しきっていました。義政もまた、幕府の実質的な権力者であった妻の日野富子や息子の義尚(よしひさ)から逃げるように東山山荘に移ったこともあり、財政的にも銀箔を貼るような余裕は無かったのではないでしょうか。また、義政は観音殿の完成を待たずにこの世を去っていますが、それによって、お金が掛かる銀箔を貼る計画が中止になったとの考えもあるようです。そして、興味深い説としてあるのが、そもそも義政は銀箔を観音殿に貼るつもりはなかったという説です。

義政は茶道を趣味とし、侘び・寂びの文化に帰依した禅宗文化人で、煌びやかで派手なものは好みませんでした。そのような義政ですから、当初から銀箔を貼る計画など一切なかったというわけです。黒漆の観音殿が日の光を受けて、それが銀色に輝いているように解釈され、いつしか“銀閣”と呼ばれるようになったのかもしれませんね。いづれにしても、これは慈照寺、いや、京都の謎のひとつなのです。

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慈照寺(銀閣寺):京都市左京区銀閣寺町2 TEL : 075-771-5725

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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