石川五右衛門 ~天下の大泥棒は庶民のヒーローだった!

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歴史に残る実在の大泥棒と言えば、江戸時代後期の窃盗犯、“鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろきち)”と、安土桃山時代の盗賊、“石川五右衛門(いしかわごえもん)”。このふたり、国の権力者からは無法者とされながらも、庶民からは絶大な支持を得ていた、いわゆる“義賊”(ぎぞく)だったわけですが、このうち、京都に深い関係があるのが、石川五右衛門です。今回は、天下の大泥棒と名を馳せた「石川五右衛門」の話をしましょう。

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「絶景かな、絶景かな!」

石川五右衛門は映画やドラマ、小説などで描かれ、その名前はよく知られていますが、なんと言っても有名なのは、京都・東山にある南禅寺の三門で「絶景かな、絶景かな」を見栄を切る歌舞伎『楼門五三桐(ろうもんごさんのきり)』の一場面です。

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髪がアフロのように生えた百日鬘(ひゃくにちかずら)に金襴(きんらん)の褞袍(どてら)、長いキセルをふかした出で立ちの五右衛門は、三門から身を乗り出して、「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値(あたい)千金とは小さいたとえ、この五右衛門が目からは値万両、万々両。日もはや西に傾きて、誠に春の夕暮れの、桜の色もひとしお、ひとしお。ハテ、うららかな眺めじゃナァ~」と五右衛門は豪語して、大見得を切ります。

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歌舞伎では、このように貫禄十分の大盗賊・石川五右衛門を、天下取りを画策する豊臣秀吉を討とうとする義賊として描いているわけですが、実は、五右衛門が生きていた時代には、南禅寺の三門は焼失したままで、まだ再建されていなかったのです。つまり、五右衛門が、南禅寺の三門に登って、「絶景かな」と言ったというのは、まったくの作り話だということになるわけですね。では、どうして、存在しない三門が舞台となったのでしょうか。

五右衛門は京都人のヒーロー

南禅寺は京都にある格式の高い禅寺の中でも「五山之上(ござんのうえ)」と呼ばれ、別格の扱いを受けていました。そして、当時の南禅寺の三門は京の都を一望に見渡せたことから、権力の象徴とされていたのです。

京都人は権力を振りかざすことを嫌うところがあるのですが、その権力のもとに、やりたい放題の秀吉をやっつけようとする五右衛門は、京都人にとっては、まさにヒーロー。そのヒーローを敢えて“権力の象徴”である三門に登らせることで、権力に打ち勝つということを京都人に示したのです。因みに、今の世の中になっても、秀吉は嫌いだと言う京都人は多くいらっしゃるとか…。

五右衛門は最期まで大泥棒だった!

ところで、石川五右衛門は、大泥棒として歴史に名を残しているわりには、不思議なことに、その罪業のほとんどは不明で、出生についても、秀吉の時代に活躍した三好氏の家臣である石川明石の子ではなかったかと言われていますが、これもひとつの説に過ぎず、その生いたちに関してはほとんどわからないのようです。

唯一、史実に石川五右衛門が名を残すのは、1594(文禄3)年に強盗の罪で豊臣秀吉によって、三条河原で“釜茹で(かまゆで)の刑”に処せられたということだけなのです。

五右衛門の目の前に置かれた大きな釜。その釜の中でグツグツと煮えたぎっているのは熱湯ではなく、油だったと言われているので、それは“釜茹で”ではなく、まさに“唐揚げ”だったわけですが、覚悟を決めた五右衛門は、辞世の句を残して、その釜の中に自ら入っていったそうです。

「石川や  浜の真砂は尽くるとも  世に盗人の  種は尽くまじ」

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最期まで、大泥棒だった石川五右衛門。この処刑の話もどこまでが事実かはわかりませんが、このように伝えられているということは、それだけ、当時の京都の人々に人気があったということなのでしょうね。

削られた五右衛門のお墓

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石川五右衛門のお墓は、八坂神社の南、山鉾を模した“祇園閣”がそびえる「大雲院」という浄土宗のお寺にあります。御影石の墓石は高さ2mほどあるのですが、その墓石をよく見ると、角の所々が欠けているのがわかります。これは長い年月と共に墓石が風化したためではなく、人の手で削られた跡なのだそうです。

大雲院は1979(昭和54)年までは、今ある場所とは違って、下京区の寺町通にありました。当時は誰でも墓地に出入りできたそうで、どうも五右衛門の墓石が削られたのも、その頃のことのようです。

墓石が削られたのは単なるイタズラではなく、例えば、盗み癖のある子どもを持つ母親が 五右衛門の墓石のかけらをお守りにすると、悪い癖が治ると人から聞いたからという、大泥棒の反面教師を願ったということや、数々の修羅場をくぐり抜けた五右衛門の物事に動じない気力を頼みにするということで、病気を患っていた子どもを持つ母親が、完治を願って墓石を削ったなどと理由はいろいろとあるようです。

墓石を削って持って帰った人たちは時の権力者、豊臣秀吉に抵抗した反体制のヒーローとして、様々な伝説を残した五右衛門に魅力を感じ、そのご利益にあやかろうとしたのでしょう。ところで、その効果のほどはどうだったのでしょうか。ちょっと気になりますね…。

ところで、京都の街を歩いていると、家の玄関先に「十二月十二日」と書かれたお札が逆さに貼られているのを見掛けることがあります。この「十二月十二日」は五右衛門が釜茹でにされた日で、その日をお札に書いて、逆さに貼ることによって、泥棒除けになると信じられているのです。これも、反面教師的な発想から生まれた習慣ですが、こういうことが今でも庶民の中で連綿と続けられているところが、京都の魅力でもあるのです。

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大雲院:京都市東山区祇園町南側594-1 TEL : 075-531-5018

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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