勧修寺 〜「玉の輿」の語源が伝わるお寺

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女性が身分の高い家やお金持ちの男性に嫁ぐことを今でも“玉の輿(たまのこし)”なんていう言い方をしますが、その語源とされる物語が伝わるお寺が京都の山科にあります。今回は男女の恋物語が縁で創建された「勧修寺(かじゅうじ)」の話をしましょう。

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男と女の恋の物語

勧修寺は、平安時代前期の豪族、宮道弥益(みやじの いやます)の居宅だった所に醍醐天皇によって900(昌泰3)年に創建されたお寺ですが、その創建には、男と女の恋の物語が深く関わっているのです。

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平安時代に栄華を極めた藤原一族のひとり、藤原高藤(ふじわら たかふじ)がまだ青年(16歳頃)だった頃のことです。

ある日、山科で鷹狩りをしていると、突然、大雨が降り出しました。高藤は雨宿りをする場所を探していると、偶然、豪族の宮道弥益の屋敷にたどり着いたので、そこで雨宿りすることにしました。

弥益には14歳ぐらいになるタマコ(列子)と言う娘がいましたが、この娘はたいそう美しく、高藤は一目見て、タマコに惹かれてしまいました。高藤はタマコと一夜を過ごし、結婚の約束をして、帰って行きました。

それから、6年の歳月が過ぎ、再び、高藤が弥益の屋敷を訪れると、大人になったタマコと自分によく似た6歳になる可愛い女の子が出迎えてくれました。高藤は約束通り、タマコを嫁に迎えました。そして、二人の間に生まれた娘、胤子(いんし)は、後に宇多天皇の皇后となり、胤子と宇多天皇の間に生まれた子どもが、醍醐天皇となるのです。その醍醐天皇が母である胤子を弔うために、祖母であるタマコが生まれ育った弥益の家をお寺とし、「勧修寺」と名付けたと言われています。

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「玉の輿」の語源が伝わる勧修寺

この時代は、たとえ豪族であっても、藤原一門でないと皇后にはなれなかった時代。そんな時代に高藤との偶然の出会いがあって、恋が生まれ、その結果、一豪族から天皇が誕生することとなった、その切っ掛けを作ったタマコを幸運な女性として、タマコの名前から「玉の輿」という言葉が生まれたと勧修寺には言い伝えられているのです。

でも、この言い伝えは、どうも納得しにくいのです。というのは、「タマ」は「玉」と置き換えられているのは良いとして、「輿」はこの話のどこに由来するのでしょうか? 「輿」は“人や物を乗せて運ぶもの(御神輿など)”という意味がありますが、それとタマコとの関連性がどうもわからないのです。

実はこの「玉の輿」の語源には勧修寺の伝わる説以外にも、江戸時代、お玉という名の八百屋の娘が三代将軍・徳川家光の側室になったことが語源であるという説、京都・西陣の八百屋の娘のお玉が、五代将軍・徳川綱吉に見初められ、京都から江戸まで輿に乗って嫁いだことが語源だという説などがあります。

これら2つの説に“八百屋の娘”が共通していることは面白いですが、“輿”が出てくるのは、西陣の八百屋の娘の話だけです。どの説も決め手に欠けますが、伝説というものは時とともに変化するもので、曖昧で、辻褄が合わないところがあるものです。細かいことに拘らず、「へぇー、そんなんだ」と思うのが、ちょうどいいのかもしれませんね。

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高藤とタマコの恋が歴史を作った!

因みに、胤子の弟の藤原定方(ふじわらのさだかた)は、百人一首の有名な歌「名にし負はば  逢坂山の  さかねかづら  人に知られで  くるよしもがな」を読んだ歌人であり、その定方のひ孫にあたる人物が、紫式部です。もし、高藤とタマコの恋物語がなかったとしたら、醍醐天皇や紫式部はこの世に存在していなかったことでしょう。ふたりの恋が歴史を作ったのです。

結局のところ「玉の輿」の語源は定かではありませんが、高藤とタマコのロマンスが、藤原一門の栄華を築く切っ掛けになったことは事実のようですね。

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勧修寺:京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6 TEL : 075-571-0048

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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