京の七不思議 その4『北野天満宮の七不思議』

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学問の神様で有名な“北野の天神さん”

日本全国におよそ12,000社もあるといわれている天満宮のご祭神で知られる菅原道真公は、幼き頃から学業に励み、5歳で和歌を詠み、11歳で漢詩を作るという、優れた才能を持った人物でした。

後に学者として最高位である「文章博士(もんじょうはかせ)」となり、ついに朝廷の最高機関である右大臣の座まで上りつめました。ところが名門貴族だった左大臣・藤原時平は、中流階級である道真の出世を妬み、時平の策謀によって道真は無実の罪を着せられ、901(昌泰4)年に九州の太宰府に左遷されてしまったのです。そして、その2年後、道真は身の潔白を証明することができぬまま、59年の生涯を閉じたのでした。

このように不幸な最後を遂げた道真には、後にさまざまな伝説が生まれ、天満宮の総本社である北野天満宮にも、その数奇な運命を象徴するかのように、多くの不思議な伝説が残されています。今回は学問の神様として信仰される、北野天満宮の「七不思議」の話をしましょう。

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北野天満宮の七不思議とは!?

北野天満宮の七不思議:その1「影向松(ようごうのまつ)」

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表参道の一ノ鳥居をくぐった右手に、背の高い大きな1本の松の木が植えられています。道真公は天台宗の高僧である尊意(そんい)からお釈迦様の遺骨、仏舎利を授かり、常に襟に掛けて大切にしていました。太宰府に左遷されてからも、肌身離さず持っていましたが、道真公がこの世を去った後、不思議なことに、仏舎利が太宰府から飛んで来て、この松の枝にかかったのだそうです。それ以降、お釈迦様が姿を現した松ということで、この松の木は「影向松(ようごうのまつ)」と呼ばれるようになったのです。因みに“影向”とは、神仏が一時、姿を現すことです。

また、仏舎利がこの松に飛来したのが、偶然にも初雪の日だったことから、毎年、初雪が降る日は道真公がこの松に降り立ち、歌を詠まれると言われています。今でもその言い伝えに従って、筆と墨と硯を供えて道真公を偲ぶ「初雪祭」が行われます。

これらのエピソードからもわかるように、道真公は京都に帰りたかったのでしょうね。その思いは如何ほどだったのか…。哀れみを感じます。

北野天満宮の七不思議:その2「筋違いの本殿(すじちがいのほんでん)」

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神社の本殿は、楼門の真正面に建てられているのが普通です。ところが、北野天満宮では、楼門の正面には「地主神社(じぬしじんじゃ)」が建っているために、本殿は楼門の真正面ではなく、やや左にずれた位置に建てられています。

これは、北野天満宮ができる以前に地主神社が祭られていたために、仕方なく、地主神社を避けて、天満宮が建てられたためと言われています。楼門から本殿に続く参道が左に曲がっているのは、確かに違和感を感じますね。でも、これって、本殿の位置に合わせて、楼門を作れば、こんな変なことにはならなかったのではないでしょうか。そうしなかったことの方が、不思議に思えます。

北野天満宮の七不思議:その3「星欠けの三光門(ほしかけのさんこうもん)」

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一般的に“日”と“月”と“星”の彫刻が施されている門を「三光門(さんこうもん)」と呼びますが、北野天満宮にも本殿の前に三光門とされる門(中門)が建っています。ただ、その門の表(南側)には真っ赤な太陽と金色の月の彫刻は確かにあるのですが、三光門と呼ばれるに必要な“星”の彫刻がどこにも見当たらないのです。そういうことで、北野天満宮の三光門は「星欠けの三光門」と呼ばれているのですが、それにしても、“星”はどこにあるのでしょうか。

門の裏(北側)には2匹のウサギに挟まれた、銀の三日月の彫刻があり、これが“星”の代わりと考えられなくもないのですが、三光門と呼ばれる限りは、3つ目の光である“星”がどこかあるはず。でも、“星”の彫刻はどこを探しても見つけることができません。長い年月とともに“星”の彫刻だけ、朽ちてしまったのでしょうか…。

実は、“星”の彫刻が見つからないのは当然で、この三光門にはもとから星の彫刻はなかったのです。平安京の頃、大内裏は北野天満宮の真南にありました。ある日の夜、帝が大極殿から北野天満宮を拝んだところ、三光門の真上に北極星が輝いていたので、その北極星を三光の“星”に見立てたということなのだそうです。壮大ですね。言い伝えとは言え、これには「なるほど!」と納得してしまいました。

北野天満宮の七不思議:その4「大黒天の灯篭(だいこくてんのとうろう)」

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三光門の東側にはたくさんの灯篭が並んでいますが、その内のひとつに、江戸時代、河原町正面(かわらまちしょうめん)というところにあった大黒屋を中心とする質屋の組合によって寄進された石灯篭があります。

その石灯篭の台座には大黒様の像が彫られていますが、その大黒様の口か頬に小石を載せて落ちなければ、その小石を財布に入れて持っていると、お金に困らなくなると言われています。財布にヘビの皮を入れておくと金運がアップするとよく言われますが、大黒様の金運パワーが付いた小石は、かなり効き目がありそうですね。

北野天満宮の七不思議:その5「唯一の立ち牛(ゆいいつのたちうし)」

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菅原道真公は丑年の生まれ(845(承和12)年)で、亡くなったのも丑の月の丑の日と言われています。そのためか、道真公には牛にまつわる伝説が数多く残されており、牛は菅原道真公(天神様)の使いとされています。

境内には牛の像がたくさんありますが、道真公が亡くなった際に、その遺体を運ぶ車を引く牛が、突然、座り込んで動かなくなったという故事に因んで、牛の像はすべて、座った姿をしています。ところが、本殿に吊されている大鈴の上の欄間に彫刻されている牛だけは、立った姿で彫られているのです。そういうことで、「唯一の立ち牛」と呼ばれているわけですが、どうして、この牛だけが立った姿なのかは、今も謎なのだそうです。

北野天満宮の七不思議:その6「裏の社(うらのやしろ)」

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神社にお参りするときは、普通、本殿の正面で拝みますが、北野天満宮は、本殿の正面だけでなく、裏からも拝むことができる造りになっているのです。

本殿の裏にまわると、道真公と背中合わせの形で北向きに祀られている「御后三柱(おんこうのみはしら)」を拝むために造られた「裏の社」があります。三柱とは、道真公の祖先神の「天穂日命(あめのほひのみこと)」、道真公の祖父の「菅原清公(すがわらのきよきみ)」、道真公の父の「菅原是善(すがわらのこれよし)」のことです。

また、明治維新の頃までは、影向松(ようごうのまつ)に飛来したとされる仏舎利が祀られていて、そのため、かつては「舎利門(しゃりもん)」と呼ばれていたそうです。

それにしても、本殿の裏にわざわざ社を造った理由は何だったのでしょう。あまり人に知られたくなかったのか、それとも、合理的な発想からか・・・、謎です。

北野天満宮の七不思議:その7「天狗山(てんぐやま)」

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北野天満宮の境内の北西方向に「天狗山」と呼ばれる小高い山があります。室町末期に描かれた「北野天満宮社頭古絵図(きたのてんまんぐうしゃとうこえず)」の上部左隅、つまり「天狗山」の位置に漫画チックな“烏天狗”の姿が描かれていることからすると、古くからこの辺りには天狗がいたと信じられていたのでしょう。もしかすると、天狗は神秘的な伝説が多く残されている北野天満宮を、そして、京都の町を天狗山から今も眺めているのかもしれません…。

試験合格や成績向上を願う学生や修学旅行生が絶えず訪れる北野の天神さんは、不思議な伝説に彩られているのです。

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北野天満宮:京都市上京区馬喰町 TEL : 075-461-0005

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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