木屋町通 〜テロリストが暗躍した幕末の京都

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京都市の東部に鴨川と平行して南北に流れる高瀬川(たかせがわ)。その高瀬川の東側沿いに「木屋町通(きやまちどおり)」があります。河原町通や新京極といった繁華街に近く、老舗の旅館や料亭、最近ではフレンチやスペイン料理などのお店も並ぶ、京都人に親しまれている通りです。

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ところが、幕末の頃、この木屋町通にはたくさんの志士たちが往来し、敵対勢力と斬り合いを繰り広げ、凄惨な拷問や暴力が横行したという、今では想像し難いとんでもない通りだったのです。今回は志士たちが駆け抜けた暗殺ストリート、「木屋町通」の話をしましょう。

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高瀬川と共に造られた通り

木屋町通は、北は二条通から南は七条通までの南北に走る、全長約2.8キロメートルの通りです。明治時代には路面電車(京都市電・木屋町線)が通るほどのメジャーな通りのひとつでしたが、今はすぐ西側に平行して河原町通、東側に鴨川を挟んで川端通といった大きな通りがあるためか、木屋町通は交通量も少なく、どちらかと言うと、“裏通り”といった感じの通りになっています。

森鴎外(もり おうがい)の短編小説「高瀬舟」の舞台になった高瀬川は、「水運の父」と呼ばれた戦国期の京都の豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)が私財を投じて開削した人工の河川ですが、その高瀬川の開削に伴い造られたのが木屋町通です。

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1609(慶長14)年、東山の方広寺の大仏殿造営改修にために、豊臣秀吉の三男、豊臣秀頼は鴨川の改修工事を、保津川や富士川などの開削実績のある了以に命じました。豊富な経験と技術を持つ了以はわずか半年ほどで鴨川の改修工事を終え、その結果、米や薪の運搬が便利になり、京都の商売に繁栄をもたらしました。ところが、了以は鴨川がこれから先も安定した利益をもたらすとは思っていませんでした。何故ならば、当時の鴨川は度々、氾濫を起こす“暴れ川”だったからです。それでも、了以が鴨川の改修工事を請け負ったのは、ある思惑があったためです。それは、京都の人々に後生に渡って安全で確実な利益をもたらす人工水路、つまり、高瀬川を造ることだったのです。

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了以の思惑は間もなく現実のものとなり、1611(慶長16)に幕府から人工水路の開削の許可を得て、その翌年に工事に着手。7万5千両という莫大な費用をかけて、1614(慶長19)に二条大橋の禊川(みそぎがわ)から取水し、伏見で宇治川に合流するまでの約10キロメートルの人工水路が完成しました。その後、舟による物資の運搬が盛んになり、木屋町が生まれ、それに伴って高瀬川の東岸に木屋町通が造成されたのです。

木屋町通は起点の地名が二条樵木町(にじょうきりきまち:現・中京区上樵木町辺り)であることから、当初は「樵木町通(きりきまちどおり)」と呼ばれていました。ところが木材や薪を積んだ高瀬舟が船着き場に集まるようになると、次第に材木商や材木問屋の店舗や倉庫が建ち並ぶようになり、いつしか「木屋町通(きやまちどおり)」と呼ばれるようになったそうです。江戸時代中期になると商人や旅人を相手にした酒屋や旅籠が増え、木屋町通は賑やかな歓楽の通りへと変わって行きました。

京都で起きた最初の天誅

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時が経って、1853(嘉永6)年。アメリカの使節ペリーの来航を受けて、大老・井伊直弼(いい なおすけ)が朝廷の許可もなく国を開くと、尊王攘夷派の志士たちは活動を激化し始めました。幕府の力は次第に弱まり、京の朝廷の力が増してくると、幕府はいわゆる「公武合体」政策で幕府の建て直しを図ろうとしましたが、「安政の大獄」(1858~1859年:江戸幕府が尊王攘夷派に対して加えた弾圧)で反井伊派への弾圧が強行されると、逆に恨みを買った直弼が桜田門外で暗殺されるなど混乱は極まり、やがて日本の政局の中心は帝のいる京都へと移っていったのです。そして、幕藩体制を変えようとする志士たちもまた京都に集い、公武合体を画策した者や帝に開国を勧めようとする者、そして、安政の大獄の協力者たちを、剣の力で“天誅(てんちゅう)”と称して、粛清、暗殺を始めたのです。

1862(文久2)年7月22日、木屋町通が二条通に突き当たる辺りにある、竜宮門を構える浄土宗のお寺、善導寺(ぜんどうじ)の門前に首が斬り落とされた身元のわからない男性の遺体が転がっていました。

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その翌日に四条の鴨川に晒された首が見つかり、殺害された男性は関白九条家の側近・島田正辰(しまだ まさたつ)であることが判明しました。島田が愛人宅で行水を行っていた最中に、突然、男2人に連れ去られ、殺害されたのです。この暗殺が京都で行われた最初の天誅となりました。

襲った人物は「幕末四大人斬り」と呼ばれた4人の志士のうちの土佐藩・岡田以蔵(おかだ いぞう)と薩摩藩・田中新兵衛(たなか しんべえ)。因みに後の2人は肥後藩・河上彦斎(かわかみ げんさい)、薩摩藩・中村半次郎(なかむら はんじろう)です。「幕末四大人斬り」とは、暗殺を行った尊王攘夷派の4人の志士のこと。今で言えば、テロリストのような存在で、京都の人々にとても恐れられていたそうです。

木屋町通界隈で起きた数々の暗殺事件

島田正辰は安政の大獄で井伊派として尊王派の志士たちの検挙を指揮した人物で、井伊大老の死後は皇女・和宮の徳川家への降嫁にも関与し、京都の影の支配者とも言われていたことから暗殺のターゲットにされたのです。この島田暗殺事件が京都での最初に行われた天誅で、その直後から、島田の関係者が次々と尊王派によって殺害される“天誅”が続きました。

九条家の家臣・宇郷重国(うごう しげくに)が斬殺。島田と共に尊王派の志士の検挙に手を貸した京都奉行所の岡っ引き・文吉(ぶんきち)が岡田以蔵に拉致され、土佐勤王党の首領・武市半平太(たけち はんぺいた)の屋敷で拷問を受け、三条河原で遺体で発見。越後浪士の本間精一郎(ほんま せいいちろう)は尊王派であったが、幕府側のスパイだとされて岡田以蔵と田中新兵衛により斬殺など、島田が暗殺された同じ年に多くの暗殺事件が木屋町通界隈で起きました。

また、2年後の1864(元治1)年には信濃松代藩士・佐久間象山(さくま しょうざん)が、自宅近くの三条木屋町で肥後藩河上彦斎らによって暗殺されました。

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公武合体論と開国論を説いた象山は当時の日本における洋学の第一人者で、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰などの多くの俊才に砲術や兵学を教えました。しかし、尊王派の志士たちからは西洋かぶれの印象を持たれていたようで、それを理由に殺害されました。何とも理不尽なことですね。

それから5年後、佐久間周山が暗殺された場所にほど近い旅籠で、医師で兵学者の大村益次郎(おおむら ますじろう)が8人の不平派士族に襲われる事件が起こりました。

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襲われた理由は、益二郎が明治新政府でフランス軍をモデルとする近代的な軍隊を作ろうとしたためだと言われています。この時、重傷を負った益二郎は、傷口から菌が入り敗血症となって、約2ヶ月後に死去しました。

テロリストたちにとって恰好の通り

新緑の季節、緑美しい高瀬川と京都の風情が色濃く残る木屋町通。この周辺には、幕末の頃、新選組の名を一躍轟かせた池田屋事件の現場を示す石碑が立っていたり、坂本龍馬が海援隊の本部を置いた「酢屋(材木商)」が今も残っています。

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当時の木屋町通は水運により、行き交う人と物の流れが賑やかで、人混みの中、幕末四大人斬りのようなテロリストたちが動き回るには恰好の地だったのでしょう。とは言え、ここは京都のど真ん中。こんなところで、人斬りが日常的に横行していたわけですから、幕末の京都が如何に混乱していたかがうかがい知れます。明治維新の頃まで起きた暗殺の歴史を思い浮かべながら、木屋町通をそぞろ歩いてみると、少し違った京都の一面を知ることができるかもしれません…。

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木屋町通:京都市中京区石屋町

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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