シリーズ『一風変わった京の地名』その10

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京都の地名からは、1200年の変遷の中で育まれた歴史と文化の面白さと奥深さを知ることができます。京都の地名には、独特のものが多く、その背景には興味深いストーリーが隠されていることがよくあります。知れば知るほど、好きになる京の町。さて、今回、ご紹介する一風変わった地名は?

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縁起の良い町?

『百足屋町』

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この「百足」という字を見ただけで、ゾクゾクッと嫌な気分になる方は少なくないと思いますが、「百足」とは字の如く無数の足で動き回る、“ムカデ”のことです。そして、この町名も「むかでやちょう」と読みます。虫や長い生き物に苦手な方にはきっと悲鳴をあげたくなるような町名ですよね。

町名からすると、「ここは、かつて、ムカデがいっぱいいたの?」と思ってしまいますよね。でも、その由来は“ムカデ”とはまったく関係ないのです。記録によると、江戸時代初期にこの地には「むかでや」という屋号の豪商があり、どうもそれが由来となっているようなのです。

「むかでや」が何の商いをしていたかまでは明らかではないのですが、お金のことを“足”というのはご存知のことと思います。例えば、予算を超過したときなど、「足が出た」なんて言いますよね。そのことから、ムカデは足がたくさんあることから、お金がたくさん集まるとし、それを商売繁盛に結びつけ、縁起の良い屋号だとされたようです。また、ムカデには足がたくさん着いているので、それを「客足がつく」、つまり、客がたくさん来るという意味もあるのだとか…。ムカデは一般的にはどちらかというと好まれる生き物ではないですが、商いを営む方々にとっては有り難い生き物なのかもしれませんね。

因みに百足屋町は、祇園祭の山鉾のひとつ『南観音山』の保存会があり、京都ではよく知られた町です。

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百足屋町:京都市中京区百足屋町

鳥居に関係が…!?

『一華表町』

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ちょっと無理からにという感じがしないでもないですが、この地名は「いっかひょうちょう」と読みます。

「一華表町」は嵯峨野の奥に位置する嵯峨鳥居本から清滝トンネルを挟んで嵯峨清滝までの地域で、表記は「嵯峨鳥居本一華表町」と「嵯峨清滝一華表町」の2つに分けられています。一華表町は町と言っても、その面積の大部分が山林なのですが、この地名の由来は“華表”にあります。

“華表”とは、神社にある“鳥居”のことで、清滝トンネルの手前にある、有名な鮎茶屋「平野屋」の側に立つ愛宕神社(あたごじんじゃ)の“一乃鳥居“がその由来だとされています。

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そもそも“華表”とは、お隣の国、中国の王城や陵墓に立てる門のことで、それが日本に渡って鳥居となったと言われています。古くには“華表”と書いて、“とりい”と読んでいたという記録もあり、現代においても、「華表(とりい)」姓が残っています。

日本における鳥居の起源は、岩屋に籠もった天照大神を呼び出すために、岩戸の前に立てた木の上でニワトリを鳴かせたこととされていますが、それを信じるならば、歴史の順序から鳥居が中国から渡ってきたという説はちょっと怪しいかもしれませんね。

京都の夏の風物詩である「五山の送り火」のひとつ、鳥居形の送り火は、この一華表町の町内にある曼荼羅山(まんだらやま)で行われます。町名の由来の通り、この町は鳥居と深い関係があることは確かなようですね。

一華表町:京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町   京都市右京区嵯峨清滝一華表町

豪商と文化人が暮らした町

『釘隠町』

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夜のとばりが下がる頃、飲み屋の提灯に明かりが灯り、仕事帰りの人を誘う…。四条烏丸の近くにあるこの町は「くぎかくしちょう」と読みます。読み方自体は、取り立てて難しい読みではありませんが、釘を隠すというところが興味を惹きます。

この「釘隠し」というのは、その文字通り、釘の頭を見えなくする技法で、花鳥草木などの装飾などに用いられたものです。ということは、この町にはその釘隠しを施す職人が住んでいた町かというと、そうではありません。この地名の由来には、かつてこの地にあったある1つの豪商が深く関わっているのです。

京都人は何かと“三大〇〇”というのが好きなようですが、江戸時代初期の京都には、“角倉”、“醍醐倉”、“十四屋倉”という三大豪商がありました。そのうちの“十四屋倉”の屋敷があったのがこの辺りなのです。当時の京都を代表する豪商だけに、その屋敷は贅を尽くした造りで、長押しの釘の頭を隠す「釘隠し」が屋敷の至るところに使われていました。「釘隠し」の技法は、離宮や門跡などではよく見られるものですが、商人の屋敷(町屋)で使われることは珍しく、それが京都中の話題になり、見物人が大勢、押しかけるようになって、ついには「釘隠町」と、町名にまでなってしまったというわけです。

また、この釘隠町は三大俳聖のひとり、与謝蕪村(よさ ぶそん:因みに他のふたりは松尾芭蕉と小林一茶)が江戸時代の中頃に、晩年を過ごした町でもあります。

蕪村は42歳の頃より京都に住み始め、59歳から生涯を閉じる68歳までこの町で住んでいたそうです。蕪村は明治期に正岡子規により評価されたことで、高名となりましたが、生きていた頃の蕪村はほとんど無名で、たまに舞い込む絵の注文と町人相手の俳諧師匠としての報酬だけで、細々と暮らしていたと言われています。

蕪村が暮らしていた長屋は現在は存在しませんが、その長屋があったとされる場所には、石碑が立っています。

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『しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり』

これは蕪村の辞世の句ですが、きっと寒い京の町に凜と咲き誇る白梅を心に思い描きながら、詠んだのでしょうね。

巨万の財をなし、町名にまでなった豪商・十四屋倉と、絵と句という文化を築いた蕪村。この釘隠町には華やかな京の姿があったのです。

釘隠町:京都市下京区釘隠町

今回は『百足屋町(むかでやまち)』、『一華表町(いっかひょうちょう)』、『釘隠町(くぎかくしちょう)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。

では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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