シリーズ『一風変わった京の地名』その11

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

京都の地名には難読で、どうしてそんな地名が付いているのか想像すらできないものも多くありますが、中には自分なりにその由来となる光景や背景を想像して、思わずニャッと笑ってしまうような、そんなユニークな地名に出会うことがあります。それもまた、京都の奥深さなのかもしれません。さて、今回の一風変わった地名は?

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

由来は駄洒落と人情話?

『二帖半敷町』

chimei_11-01

この地名は下京区の烏丸通を挟んで両側にある町で、綾小路通と仏光寺通の間にあります。読み方は表記のまま「にじょうはんじきちょう」と読みます。

今はこの辺り、オフィスビルやホテルが建ち並ぶ都会的な場所で、一見すると新しそうな町に思えますが、もともとこの町は応仁の乱(1467年~1477年)の後に、生き残った町衆によって作られた町だということで、そういうことからすると、それなりに歴史のある町のようです。

chimei_11-06

ところでこの町、“二帖半”とあるので、さぞかし狭い町なんだろうと思われるかもしれませんが、実際は、京都の町としては決して狭い町ではありません。では、どうしてこのような広さを思わせるような町名が付けられたのでしょうか。調べてみると、その由来には2つの説がありました。

1つ目の説は、かつてこの町には五条寺というお寺があったそうなのですが、その住職が2人の弟子に寺を分割して継がせたことから、“五条”を2つに分けて、“二条半”とし、それがいつしか“二帖半”になったという説です。

2つ目の説は、この町にわずか畳五帖しかない小さな家があったそうで、その家を兄弟で仲良く半分づつ、二帖半に分けて住んだことから、名付けられたという説です。

1つ目の説は、駄洒落のような話で、寺を分割するというのは実際には運営上、無理があるように思えますし、2つ目の説も、人情話的ではありますが、二帖半では暮らすには狭すぎて、現実的ではありませんよね。それに、“五帖”って不思議なサイズだし…。

このようにどちらの説もこじつけのようで、由来としては納得するには些か苦しいわけですが、そこで仮説をひとつ。和室で“二畳半”というサイズはありませんが、茶室ならばあり得ます。つまり、この町名の“二帖半”とは、茶室のことを指しているのではないかということです。

一般的に茶室は四畳半であることが多いのですが、それは決まったことではなく、三畳や二畳半の茶室も多くあります。千利休は簡素化と相手との親密化から、茶室を可能な限り狭くして、ついには一畳半敷きの茶室を造ったとも言われています。

この「二帖半敷町」に茶室があったかどうかはわかりませんが、もし、あったとしたら、この“茶室説”、かなり有力な説になるように思うのですが、どうでしょう?

読みが複雑なら、その由来も…

『卜味金仏町』

chimei_11-02

「カタカナの“ト”?」と、いきなり出だしから読むのを戸惑ってしまう町名が下京区にあります。実はこの町名の最初の文字はカタカナのトではなく、漢字の卜(ぼく)で、「ぼくみかなぶつちょう」と読みます。読みづらく、複雑な感じがする地名ですが、それもそのはずで、この町名は3つの由来から成る町名なのです。

まず、そのひとつは“金仏”。 平安時代、この地域には「六条殿(ろくじょうどの)」と呼ばれる後白河法皇の御所があって、その御所内に持仏堂の「長講堂(ちょうこうどう)」というお寺がありました。

六条殿が廃れた後、長講堂は現在の下京区河原町通六条に移転することになるのですが、それに伴って金銅製の釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来の「如来三尊像」をご本尊として独立し、寺名も「延寿寺(えんじゅじ)」と改称されました。延寿寺は如来三尊像を安置したことから、鎌倉時代の頃には通称「金仏寺(かなぶつでら)」と呼ばれ、広く知られるようになったそうです。

しかし、延寿寺は1864(元治1)年に起きた「蛤御門の変(禁門の変)」で焼失し、金銅製のご本尊も火災で溶けて無くなってしまいました。ところが、金仏という名前だけは発祥の地に残り、町名の由来のひとつになったのです。(因みに、ご本尊はその後、木像に代わり、延寿寺も、1882(明治15)年に再建されました。)

2つ目は卜味金仏町はふたつの町が合併したということ。これが妙な町名になった由来でもあるのですが、現在の地図を見ると、卜味金仏町の北に「中金仏町」があり、更にその北に「上金仏町」があることがわかります。

chimei_11-03

これで察しがつくかと思いますが、現在の卜味金仏町の辺りはもともとは「下金仏町」という町名だったのです。そして、「下金仏町」の隣りに「卜味町」があって、その2つの町が明治の頃に合併し、「卜味金仏町」が生まれたというわけです。

さて、3つ目。おそらく“卜味(ぼくみ)”の由来が何であるかが一番、気になることと思いますが、実は“卜味”とは人の名前らしいのです。“らしい”と曖昧な言い方をしましたが、この卜味という人物は実際にいたことは確かなのですが、豊臣家と親交があったという以外、どのような素性の人だったかは一切、わかっていないのです。武士だったのか、商人だったのか、それとも公家だったのか…。風流な感じの名でもあるので、豊臣家との親交という点を考えると、茶人だったのかもしれませんね。

「卜味金仏町」は読みが複雑なら、その由来もまた複雑な町なのです。

長講堂:京都市下京区富小路六条本塩窯町528 TEL : 075-351-5250

延寿寺:京都市下京区河原町通六条下ル本塩窯町588 TEL : 075-351-5978

色っぽい町名、実は…

『朝妻町』

chimei_11-04

この町名は「あさづまちょう」と読みます。この町も下京区にある町で、読み方としては普通ですが、その語感にどことなく色っぽさを感じさせてくれる町名です。

朝妻町の近くには、『源氏物語』に登場する夕顔のお墓(物語なのに登場人物のお墓があるというのも不思議なことですが)があることで知られている夕顔町もあるので、朝妻町の由来にも女性が関係しているのかもと勝手な期待をしていましたが、実際の由来は色気の微塵もないものでした。

慶長(1596-1615)の頃、この町は「秋月町(あきつきちょう)」という町名だったそうです。それが寛永(1624-1645)になると「まんじゅうじあさつま町」に変わりました。

“まんじゅうじ”とは、東山区にある東福寺の塔頭・万寿寺のことですが、寛永の頃にはこの地にあったそうで、そのため町名に“まんじゅうじ”と付けられたようです。今もその名残として、朝妻町の北側には万寿寺通が、南側には万寿寺町があります。

さて、ここで疑問がひとつ。それは、もともとは「秋月町」だったのが、どうして「朝妻町」に変わったのかということです。その答えははっきりとはわかっていませんが、可能性として「記載ミス」が考えられると言われています。それぞれの町名を平仮名で表記してみると、確かに文字の並びや形が似ています。

江戸時代に描かれた町割りの絵図には、町名は仮名文字で書かれることが一般的で、しかも手書きの筆文字だけに、読みづらかったり、書き間違ったりすることがよくあったようです。町名自体も、お寺が建ったり、豪商が店をかまえると、途端に今までの町名がお寺の名やお店の屋号にかわることも珍しくなく、そういうことから考えると、当時の人たちは今ほど、町名を意識していなかったのではないでしょうか。

そういうわけで、「あさつま」は「あきつき」の記載ミスによって生まれ、その後に「あさつま」に「朝妻」という漢字が当てられたというのが、「朝妻町」の由来のようです。色気のある話がまったくなかったのは、ちょっと残念ではありますが…。

今回は『二帖半敷町(にじょうはんじきちょう)』、『卜味金仏町(ぼくみかなぶつちょう)』、『朝妻町(あさづまちょう)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。

では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA