シリーズ『一風変わった京の地名』その15

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難読地名がやたらと多い京都。それは1200年という長きに渡る変遷の中で生まれたものであり、現代人には読めない古来の読み方であったり、その場所に関係する出来事や人物に由来するために、地名だとは思えないような地名が数多くあります。知れば知るほど、興味が深まる京都の地名。さて、今回ご紹介する一風変わった地名は?

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中国の故事に由来する鉾を保存する町

『函谷鉾町』

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京都では、祇園祭の山鉾の名前がそのまま町名になっていることがよくありますが、この「函谷鉾町」もそのひとつです。そのまま読むと、“かんこくほこちょう”ですが、正しくは「かんこぼこちょう」と読みます。

函谷鉾町はその字の通り、函谷鉾の町です。この鉾は応仁の乱(1467~1477)の以前からあったとされる由緒ある鉾で、くじ取らずの山鉾です。祇園祭で行われる山鉾巡行の巡行順位を決めるためのくじがありますが、くじを引かない鉾町があって、その鉾のことを「くじ取らず」と言います。

くじ取らずは古来より不動で、前祭で巡行する23基のうち、先頭1番が有名な「長刀鉾(なぎなたぼこ)」、5番がこの「函谷鉾」、21番「放下鉾(ほうかぼこ)」、22番「岩戸山(いわとやま)」、そして殿(しんがり)、23番の「船鉾(ふねほこ)」の5つの鉾がくじ取らずです。因みに後祭の巡行では10基のうち、1番「北観音山(きたかんのんやま)」、2番「橋弁慶山(はしべんけいやま)」、9番目「南観音山(みなみかんのんやま)」、殿の「大船鉾(おおふねほこ)」がくじ取らずです。

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函谷鉾はもともとは「かんこくほこ」と読まれていたそうですが、いつしか“く”だけがはしょられて、「かんこぼこ」または「かんこほこ」と発音されるようになったようです。

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ところで、この函谷鉾の“函谷”とは、何のことかご存知でしょうか? 実はこの“函谷”とは、中国戦国時代(前403~221)に長安と洛陽の間に、秦が東方の防衛のために設けた関所・函谷関(かんこくかん)のことで、その函谷関には函谷鉾の由来となる故事が伝えられています。

それは斉の政治家、孟嘗君(もうしょうくん)が秦の国から脱出しようと、函谷関(かんこくかん)までやって来たところ、深夜だったため門は閉じら通ることができなかったので、朝一番の鶏の鳴き声を合図に開けられることを知っていた孟嘗君は家来に鶏の鳴き声をまねさせると、不思議なことに本物の鶏がつられて鳴き出し、門が開いて孟嘗君ら一行は難を逃れたという故事です。

函谷鉾はこの故事を表現していて、鉾頭の三日月と山型は夜の山中を表し、真木の中ほどにある天王座には孟嘗君が祀られ、その下にはオスとメスの鶏が取り付けられています。

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この函谷鉾町のある京都市下京区の四条烏丸界隈は、現在、金融機関のビルが建ち並び、ビジネス街として賑わっていますが、その活性化に伴い、鉾を支えた町衆が早くに姿を消しました。そのために、『あすの函谷鉾をつくる会』という組織が町に通う有志の手によって運営され、町内会に代わるさまざまな仕組みを作り、鉾の伝統が今も守り続けられています。函谷鉾の維持、運営に携わる人たちのことを、保存会では「通い町衆」と呼ぶそうですが、よそからの通いであっても、工夫しながら古いもの、伝統あるものを継承し、守り続けるところも京都らしさの一面でもあるのです。

函谷鉾町:京都市下京区函谷鉾町

貴族が住む大きな屋敷があった場所

『櫛笥』

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この地名は二条城を北に少し上がったところにあるのですが、「櫛笥町」と「櫛笥通」があって、それぞれを“くしげちょう”、“くしげどおり”と読みます。

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この地名も知っていないと読めない地名ですね。「櫛」は髪をとく道具として馴染みがあるので、“くし”とすぐに読むことできますが、「笥」はどうも読めません。そこで調べてみると、この「笥」は、“け”と読み、古代日本において食べ物を載せるための器、つまり、食器のことなのだそうです。そう言えば、衣類を収納する家具のタンスも漢字表記すれば「箪笥」と書くように、「笥」には“入れ物”という意味があるようで、この「櫛笥」も、櫛やハサミ、毛抜き、耳かきなど、女性の身の回りの道具を入れる箱だったようです。

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そういったことから「櫛笥」は、この地域に櫛笥を作る職人が住んでいたか、もしくは売っていた店があったために付けられた地名かと想像されるかもしれませんが、実はそうではなく、平安時代、この辺りに櫛笥大納言と呼ばれる貴族が住む大きな屋敷があったことから名付けられた地名なのだそうです。

ところで、現在、櫛笥町の東面に沿って日暮通(ひぐらしどおり)が南北に通っていますが、この通りは平安時代に左京の西部を南北に走っていた櫛笥小路を豊臣秀吉が行った洛中改造、いわゆる「天正の地割」によって再開発された通りです。情緒ある通りの名前ですが、実はこの通りの名前は秀吉が建てた「聚楽第(じゅらくだい)」に関係していると言われています。

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絢爛豪華な宮殿だったと言われる割には正確な記録がほとんど残されていない聚楽第ですが、かなりの規模を誇る、豪壮美麗な建物であったことは確かなようで、その大手門も大勢の見物人が押しかけるほど、立派で美しい門だったようです。大手門の前の通りは見物人で溢れ、その美しさに見飽きることなく、日が暮れるのも忘れて眺めたことから、その通りのことを「日暮通」と呼ぶようになったそうです。当時の京の町衆は、お花見さながら、お弁当を広げ、お酒を飲み交わしながら、“門見”を楽しんだのでしょう。

櫛笥町:京都市上京区櫛笥町

その由来は橋と川にあった!?

『深草直違橋』

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この地名、“深草(ふかくさ)”までは比較的普通に読めることと思いますが、その後の“直違橋”を正確に読める人は少ないかもしれません。「深草直違橋」は“ふかくさすじかいばし”と読みます。

“すじかい”は読みを聞けば、ピンとくる人も多いかと思いますが、“すじかい”とは「筋違」や「筋交い」と表記され、物と物が斜めに交差している状態を意味する言葉であったり、家の強度を増すために、側面の壁に斜めに組み込まれる骨組みのことを指す建築用語でもあります。よって、この地名も「深草筋違橋」であれば、まだ読み易いところ、何故か「深草直違橋」と表記されたために難読な地名になってしまっているのです。

この地名が「深草直違橋」と呼ばれるようになったのは、この地域に直違橋という名前の橋があることに由来しています。

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この町には伏見街道(府道201号線・通称:直違橋通)が南北に通っていますが、その伏見街道が七瀬川という小さな川をまたぐ場所にある橋が川と斜めに交差していることから、その橋に直違橋という名前が付けられたのだそうです。

ところで、現在、この町には京都聖母学院がありますが、かつてその場所には、陸軍師団本部がありました。伏見は日本三大酒処のひとつ(あとの2つは、兵庫県の「灘」、広島県の「西条」)として全国的に知られていますが、その酒造産業が栄えたのも、その陸軍師団本部があったためだと言われています。

伏見のお酒を代表する「月桂冠」や「金鵄(キンシ)正宗」、「英勲(えいくん)」などといった銘柄が全国的に有名になったのは、陸軍御用達を競ったためだとか…。確かにそう言われれば、これらの銘柄は、戦いや勇ましさを表しているものが多いですね。明治は国民に戦勝気分が高まっていた頃ですから、このような銘柄が一般にもウケが良かったのかもしれませんね。

深草直違橋:京都市伏見区深草直違橋 

今回は『函谷鉾町(かんこぼこちょう)』、『櫛笥(くしげ)』、『深草直違橋(ふかくさすじかいばし)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。

では、次回をお楽しみに。          

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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