シリーズ『一風変わった京の地名』その4

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

京都の街を歩いていると、どうして、こんな地名が付けられているのだろうかと妙に気になる地名に出会すことがあります。そんな地名とその由来をご紹介するシリーズの4回目。さて、今回、お話しする一風変わった京の地名は?

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

その由来は川にあった!?

『烏丸』

chimei_04-05

初めて京都に来て、この地名を見ると、「とりまる」と読む人が意外と多いようです。確かに、パッと見るとそのように読んでしまいがちですが、よく字を見ると、「烏丸」の「烏」は“トリ”ではなく、“カラス”。「烏丸」は“からすま”と読みます。烏丸は企業のオフィスや大学などの教育機関が立ち並ぶ通り(烏丸通)の名前にもなっているので、地元ではよく知られているメジャーな地名です。

chimei_04-01

さて、その「烏丸(からすま)」と呼ばれるようになった由来についてですが、“烏”という漢字から、当然、カラスに何らかの関係があると普通は思いますよね。ところが、その由来には“”カラスの“カ”の字も出て来ないのです。「烏丸」という地名は、かつてあったとされる“川”に由来しているのです。

現在の京都市にある大きな川は、東にある鴨川と、西にある桂川の2つですが、今は通り名としてしか残っていない今出川や夷川(えびすがわ)も、かつては川として存在していました。そして、現在の烏丸通に沿って、もうひとつ川が流れていたのです。その河原の中洲を“河原の洲=”として、それが短縮されて、“からす”と言われるようになり、その中州の一帯を“河原の洲の間=”で「からすま」と呼ぶようになったと言うことです。因みに“間”とは、空間を意味する言葉で、旅館の部屋の「○○の間」の“間”も同じ意味です。

烏丸通の地下を走る京都市営地下鉄・烏丸線の工事の際に、烏丸綾小路あたりで弥生時代のものとされる住居の遺跡が発掘されました。このことから、河原洲があったことが確認されています。ただ、「からすま」に「烏丸」という字を当てた理由は、今もよくわからないそうです。案外、単に読みに合わせただけだったりして…。

chimei_04-02

その由来は偶然が招いた残虐な事件にあった!

『蹴上』

chimei_04-06

この地名は東山区と山科区の境にあります。琵琶湖疎水の入り口にあたり、春には美しい桜が咲き誇り、花見の名所としても知られている場所です。「蹴上」は字の如く、「けあげ」と読みますが、その由来には、かの有名な牛若丸こと源義経(みなもとのよしつね)にまつわる伝説が関係しているのです。

chimei_04-03

1174(承安4)年、奥州に向かう途中、日岡峠の清水(現在の蹴上)に着いたところで、義経一行はここまでお供してくれた人たちと別れを惜しんでいました。そこに馬に乗ってやって来た平家の武者、関原与市(せきはらよいち)とその従者9名が、義経たちの前を横切った際に従者が乗っていた馬が水溜まりの泥水を蹴り上げ、運悪く、義経が着ていた衣を汚してしまったのです。それに腹を立てた義経は、何と従者9名を皆、斬り殺し、与市の耳と鼻を削いで追い払ったのでした。

美男子とされている義経のイメージにそぐわない残虐な事件ですが、このように馬が水溜まりの泥水を蹴り上げたことから、この事件が起きた場所を「蹴上(けあげ)」と呼ばれるようになったとされています。

因みに、蹴上の近くに「九体町(きゅうたいちょう)」という地名があります。この地名も妙ですが、ここには、義経が斬り殺したとされる9名の従者の菩提を弔うために、9体の石仏が祀られていたそうです。義経も突然のこととはいえ、頭に血が上って、容赦なく斬り殺してしまったことを悔いたのでしょうね。

ところで、この「蹴上」の由来には別の説もあるのです。昔、京都の九条山(現在の渋谷街道が通る場所)には、京都一の処刑場と言われた「粟田口刑場」がありました。この刑場では、15,000人以上の罪人が処刑されたと言われていますが、都から粟田口刑場に罪人を連れ行く際に、日岡峠にさしかかると処刑を拒む罪人を蹴り上げながら、無理からに歩かせたそうです。そういうことから、この地に「蹴上」という地名が付いたという説です。

この「蹴上」という地名の由来は、どちらの説であっても、あまり気持ちのいいものではなさそうですね。

禁断の愛から生まれた地名

『赤池』

chimei_04-07

名神高速道路・京都南インターから南に少し下がったところに、この地名はあります。「赤池」の読み方は、そのまま「あかいけ」で、何らひねりはありませんが、この地名の由来には悲しくも哀れないわれがあるのです。

今の赤池には池はありませんが、昔はここに小さな池があったそうです。「赤池」の「赤」は、おおよそ見当が付くとは思いますが、その通りで、“血”のことです。

平安時代後期に遠藤盛遠(えんどうもりとお)という名の少々気性の荒い、北面の武士(ほくめんのぶし:上皇の身辺護衛をする武士)がおりました。盛遠は袈裟御前(けさごぜん)という名の美しい女性と恋仲にあったのですが、袈裟御前には夫がいました。つまり、それは許されぬ恋だったわけです。

ところが、盛遠はとんでもない計画を企てました。「御前の夫を殺すので、私と正式に結婚してくれ」 御前はその盛遠の言葉に驚きながらも、「それでしたら、東より2つ目の部屋に夫は寝ていますので、必ずや仕留めてください」と言いました。

そして、ある日の夜のことです。盛遠は御前の夫が眠りについた頃を見計らって、寝室に忍び込み、夫の首を一刀のもとに斬り落としてしまいました。ところが、盛遠が斬ったのは、何と愛する袈裟御前だったのです。夫がいる身なのに、別の男と道ならぬ恋に落ちてしまった御前は、自分を恥じ、夫の身代わりになって、自ら死を選んだのです。

自分の愚かな行為で、愛する御前を失った盛遠は呆然としながら、近くの池で御前の首を洗いました。すると、池の水は見る見るうちに御前の血で真っ赤に染まったのでした。

このようなことがあって、その池は“赤池”と呼ばれるようになり、その池があった場所が、現在の赤池だと言われています。

ところで、この話には続きがあります。その後、盛遠は自らの手に掛けてしまった御前の菩提を弔い、仏門に入って、名を文覚(もんがく)と改めました。ところが、僧侶になっても、気性が荒いのは変わらず、時の権力者であった後白河上皇を激しく批判したことから、上皇の逆鱗に触れ、100日もの間、地中深くに掘られた穴蔵の牢に閉じ込められたと言われています。その文覚が閉じ込められたとされる穴があった場所は、今のJR京都駅の近くにあって、そこには「文覚町(もんがくちょう)」という地名が付いています。

人は偉業よって名を残すことはよくありますが、盛遠のように偉業とはほど遠い行いをした人物でも、名前が後世に残るということもあるものなのですね。

以上、今回は『烏丸(からすま)』、『蹴上(けあげ)』、『赤池(あかいけ)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA