京の七不思議 その15『京都御苑の七不思議』

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かつては宮家や公家の邸宅が建ち並んだ町だった

京都市街の中央よりやや北寄りに位置する京都御苑(きょうとぎょえん)は、御所を囲む東西(寺町通と烏丸通の間)に約700メートル、南北(今出川通と丸太町通の間)に約1300メートル、面積にして約92ヘクタールもある広大な国民公園です。

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現在、苑内には御所の他に、仙洞御所、大宮御所、京都迎賓館がありますが、公園になっている地域には、明治が始まる頃まで200もの宮家や公家の邸宅が建ち並んでいたそうです。ところがその後、明治天皇の東京遷都に伴って、多くの皇族や公家も東京に移住し、人が住まなくなった建物は廃墟となってしまいました。そのことに心を痛めた明治天皇は京都府に対して、自ら御手元金4千円(現在の金額に換算すると1億6千万円以上)を下賜し、御所の保全を命じたのです。

京都府はそのお金で土地を買収し、廃墟となった建物を撤去し、更地になった場所に植樹を行い、周囲に土塁と門を設置しました。そして、この場所を御所に付随する苑地という意味で「御苑(ぎょえん)」と名付けられたのです。これが「京都御苑」の始まりです。

約5万本もの樹木が生育し、100種類以上の野鳥が生息している自然豊かな京都御苑には、どんな不思議があるのでしょうか。今回は京都市民の憩いの場所として親しまれている京都御苑にまつわる七不思議の話をしましょう。

京都御苑の七不思議とは!?

京都御苑の七不思議:その1「猿ヶ辻(さるがつじ)」

京都御苑の中にある京都御所は、外壁によって周りが囲まれていますが、その外壁の北東の角が「猿ヶ辻(さるがつじ)」と呼ばれている場所です。この角だけ、外壁が内側にへこんでいるという奇妙な形状になっています。現代の建築物なら、これもデザインのひとつといって済んでしまいそうですが、由緒ある御所の外壁だけに、わざわざ作られたこの奇妙な形状には意味がありました。

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昔から日本では鬼が出入りする方角を“鬼門(きもん)”と言って嫌われ、社寺や民家などには鬼門除けの風習が今も残っていますが、この奇妙な形状の外壁も御所の鬼門除けのためのものだったのです。この猿ヶ辻と呼ばれる外壁の北東角は御所の鬼門にあたり、角をへこませることで、鬼門(角)が無くなり、災いが入ってこないと考えられたのです。大胆なやり方ですが、鬼門除けとしては面白い考え方ですよね。

次に「猿ヶ辻」と呼ばれる由来について。“猿”という字が付いているわけですから、サルに何らかの関係があることは察しが付くかと思いますが・・・、一見、サルはどこにも見当たりません。でもよーく見ると・・・、いました! 外壁の屋根の軒下に烏帽子を被り、御幣を担いだ1匹のサルが! と言っても生きているサルではなく、かの名工・左甚五郎の作だと言い伝えられている木彫りの彫刻です。

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このサルの彫刻は閉じ込められるように金網で覆われているのですが、それは、夜中になると彫刻のサルが軒下から抜け出して、悪戯をすることを知った天皇が抜け出せないようにと金網で覆うように命じられたとされています。本当にサルが抜け出したかどうかは別として、それほど、左甚五郎の作だけにこの木彫りのサルは生きているかのように見えたのでしょうね。

では、何故、猿なのでしょうか? それは、“猿”はその読みの音から「去る」に置き換えて、“悪いモノが去る”とか“魔が去る”という言葉に用いられたということ。そして、古来より猿は魔物に対抗するチカラがあると考えられていたことなどが理由だとされています。そう言えば、『西遊記』の主人公・孫悟空やインドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場するハヌマーン、『桃太郎』の家来の猿なども、邪悪な魔物や鬼と闘うという設定で描かれていますよね。

また、方角を十二支に置き換えると、鬼門の方角とされる北東は「丑・寅(ウシ・トラ)」で、その対角となる南西が「申(サル)」になります。ウシには角(つの)が、トラには牙があることから「鬼」と考えられ、その鬼に対抗するという意味で、真逆の方向にあたるサルが鬼門を守るとする発想が生まれたとも言われています。

現在の猿ヶ辻の付近は広々とした明るい場所ですが、維新の頃までは公家の家が建ち並び、昼でも薄暗かったそうです。江戸時代末期の1863(文久3)年7月に、この猿ヶ辻で凄惨な事件が起きました。その事件とは当時、尊王攘夷を唱える公家の姉小路公知(あねこうじ きんとも)が、覆面をした刺客3人に襲われ、暗殺されるというもので、この事件は起きた場所から「猿ヶ辻の変(または、朔平門外(さくべいもんがい)の変)」と呼ばれています。

今で言えば、政治的テロ事件ということになりますが、その主犯格の人物として“人斬り新兵衛”という異名を持つ田中新兵衛(たなか しんべえ)の名が上がりました。公知が斬られた現場に新兵衛の刀の鞘が落ちていたことから、容疑がかけられたようですが、捕まる前に自害してしまい、結局、真相はわからず終いで、この事件は闇に葬られてしまいました。田中新兵衛は本当に真犯人だったのでしょうか…。それは猿ヶ辻の金網の中にいる猿のみが知ることなのかもしれません。

京都御苑の七不思議:その2「祐井(さちのい)」

猿ヶ辻の北側に、幕末の公家で政治家でもあった中山忠能(なかやま ただやす)の邸宅跡「中山邸跡」があります。

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中山忠能は尊王攘夷の思想を持ち、公武合体派の公家として、仁孝天皇の第8皇女・和宮と14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)の縁組みに尽力したり、岩倉具視(いわくら ともみ)らと共に「王政復古の大号令」を実現させた人物です。

忠能には慶子(よしこ)という名の娘がいましたが、その慶子は孝明天皇の内侍典侍(ないしのすけ:宮中最高位の女官)になり、1852(嘉永5)年にこの山中邸で男の子を産みました。その男の子とは、後の明治天皇になる「祐宮(さちのみや)」です。中山邸跡の敷地内には、今も産屋(うぶや)が遺っていて、祐宮はそこで4年間養育されたそうです。

1853(嘉永6)年の夏のこと。中山邸には井戸がいくつかあったようですが、連日の日照りで、すべての井戸が涸れてしまいました。水がなければ生きていけない。そこで、一か八かの思いで、新たに井戸を掘ることにしました。すると掘られた井戸から清水がコンコンと湧き出したのです。この出来事を聞いた孝明天皇はたいそう喜び、我が子である祐宮に因んでその井戸を「祐井(さちい)」と命名したのでした。今も、祐井は湧き続け、不思議なことに湧き出る水量は毎年、同じなのだそうです。

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京都には名水と呼ばれる水が湧き出た井戸がいくつもあり、今も湧き続けているものもありますが、この祐井も“縣井(あがたい)”、“「染井(そめい)“と共に、「御所三名水」のひとつに数えられています。因みによく言われる「京都三名水:縣井、染井、醒ヶ井(さめがい)」とは異なりますので、お間違いのないように。

京都御苑の七不思議:その3「糸桜(いとざくら)」

御所の周辺には天皇に仕える朝廷の屋敷が建ち並び、京都御苑の北にある今出川御門にほど近いところにも「五摂家(ごせっけ)」のひとつ、近衛家の屋敷がありました。摂政関白に任ぜられる家のことを「摂家」といい、特に鎌倉時代の頃の藤原北家の流れを汲む九条家、二条家、一条家、鷹司家、そして、近衛家の五家のことを「五摂家」と呼ばれています。

近衛家は、鎌倉時代から数えて1300年の歴史を誇る藤原北家の直系の血筋とされ、五摂家の中では筆頭の家柄で、江戸末期までに多数の摂政や関白を輩出しました。さぞかし立派な屋敷だったと思われますが、今は近衛邸があった跡地にある池泉回遊式庭園の一部であった近衛池と毎年3月終わりから4月始めにかけて見事な花を咲かせる枝垂れ桜がその面影を残しています。

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この枝垂れ桜は細かい糸が流れているように見えることから、「糸桜(いとざくら)」と呼ばれ、古くには『春の雨に 糸くりかけて 庭の面は みだれあひたる花の色かな』と和歌に詠まれ、孝明天皇も『昔より 名にはきけども今日みれば むべめかれせぬ糸さくらかな』と歌に詠まれるほど、愛された桜なのです。

このように「糸桜」自体には取り立てて不思議だとされることは特にありませんが、この「糸桜」に関連した不思議なエピソードが残されています。

近衛邸の糸桜は、その株が津軽藩にわけられたことで交配が重ねられ、仙台の枝垂れ桜として定着しました。ところが、糸桜の一重の白い花弁は、東北を変遷していく間に、八重の薄紅色の花弁に変わってしまったのです。

それから後、1895(明治28)年の平安神宮創建の時に、仙台市長から1本の枝垂れ桜が寄贈されたのですが、この枝垂れ桜のもとは、近衛邸の糸桜だったのです。つまり、京都御苑にあった枝垂れ桜が、形も色も変わって、ふるさとに帰ってきたというわけですね。奇跡的に京都に帰り咲いた桜は、今は平安神宮の枝垂れ桜として人々から愛されています。

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京都御苑の七不思議:その4「縣井(あがたい)」

京都御苑に残る3つの井戸の内のひとつ、「縣井(あがたい)」。この井戸は、乾御門の南、宮内庁京都事務所の西側にありますが、かつてはこの地に、五摂家のひとつである一条家の屋敷がありました。

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縣井という名前は、昔、井戸の傍らに縣宮(あがたぐう)と呼ばれる社があったことに由来しており、地方官吏として出世を願う人は、縣井の井戸水で身を清め、栄進を祈願して宮中にのぼるのが仕来りだったようです。

この縣井も古くから歌に詠まれていたようで、後撰和歌集には橘公平女(たちばなのこうけいのおんな)が『都人 きてもをらなん蛙なく あがたのゐどの山ぶきのはな』と詠み、続後撰和歌集には後鳥羽上皇が『蛙鳴く あがたの井ど忙春くれて 咲くやしぬらん山吹の花』と詠んでいます。これらの歌からすると、縣井の周りには山吹が生えていたようですね。

この地が一条家の邸内になったのは江戸時代になってからのことで、明治天皇の皇后・昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)になられた、左大臣・一条忠香(いちじょう ただか)の三女・一条美子(いちじょう はるこ)の産湯に縣井の井戸水が使われたと言われています。

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昭憲皇太后は、華族女学校(現:学習院女子高等科)や東京女子師範学校(現:お茶の水女子大学)を設立し、社会事業振興の先頭に立って、日本赤十字の発展や女子留学生の派遣などに大きく寄与しました。また、着物は女子の行動を制限して不自由だとして、率先して寝間着以外はすべて洋服を着用したそうです。昭憲皇太后とは、かなり先進的な女性だったようですね。

『大和物語』(平安時代中期の歌物語)には病気を治す水とも紹介されている縣井。今は残念ながら枯れてしまい、2本足の瓦葺きの屋根に覆われた、四角い石の井戸枠が残っているだけですが、近年になって、縣井のすぐ側を掘ってみると、水が湧き出し、今は水場が作られています。この水が縣井と同じ水脈の水だったとしたら、ちょっといいと思いませんか?

京都御苑の七不思議:その5「御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)」

京都御苑では、3月下旬から近衛邸跡の糸桜が咲き始め、最後に開花するのが、中立売御門(なかだちうりごもん)に入って西手にある「御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)」です。趣のある綺麗な名が付けられた桜ですが、その名の由来には諸説あるようです。

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まずは、通説とされているのが、第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)がこの桜の前を牛車に乗って通られたところ、余りにも美しかったので、もう一度見たいと思い、引き返して再び眺められたという説。

他の説としては、もっと古くに、桜の前を通った第52代・嵯峨天皇がその桜の美しさに心奪われて、引き返して眺めたという説や、高貴な御方が、桜を見た後に、桜の花は「一重だ!」「いーや、八重だ!」と言い争いになったため、引き返して確かめたという説があります。

どの説が正しいかはともかく、「御車返しの桜」はもう一度見たくなるほどに美しい花が咲く桜なのです。

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ところで、「御車返しの桜」には、一枝に一重と八重の花が咲くという特徴があります。「御車返しの桜」はサトザクラ(里桜)の一種で、ヤマザクラとオオシマザクラの交配によって産まれた品種で、鎌倉の桐ヶ谷にも同じ桜があったことから、「桐ヶ谷」とも呼ばれています。

実は「御車返しの桜」と呼ばれる桜は全国に幾つかあり、代表的なものとしては、京都御苑の他に、京都の清水寺にある地主神社の「地主桜(じしゅざくら)」や常照皇寺(じょうしょうこうじ)の「御車返しの桜」、鎌倉の極楽寺にある「八重一重咲分桜(やえひとえさきわけざくら)」などがあります。

これらの桜が同じ種類かどうかはわかりませんが、どの桜にも、皇族や公家といった人たちが牛車を引き返して眺めたという言い伝えが残されているのは不思議なことですね。

京都御苑の七不思議:その6「蛤御門(はまぐりごもん)」

京都御苑の外郭には9つの門がありますが、そのうちの西門のひとつが「蛤御門(はまぐりごもん)」です。よく耳にする名称だと思いますが、実は「蛤御門」は俗称で、正式名は「新在家御門(しんざいけごもん)」といいます。正式名があるにも関わらず、どうして蛤御門と呼ばれるようになったのでしょうか? それは、1788(天明8)年3月7日の未明に起きた「天明の大火」に関係しているのです。

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「天明の大火」は京都で発生した史上最大規模の火災だと言われています。鴨川の東側にある宮川町の民家から出た火(一説によると放火)は、強風に煽られ瞬く間に広がり、当時の京都の町の8割以上が灰になったそうです。御所もその火から免れることなく焼けてしまいますが、この時、常に閉ざされていた新在家御門は避難のために開放されました。それがあたかも火にあぶられて開いた蛤のようだということで、「蛤御門」と呼ばれるようになったのです。

“蛤御門”と言えば、やはり「蛤御門の変(禁門の変)」でしょう。幕末の1864(元治1)年、政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、京都守護職にあった会津藩主の松平容保(まつだいら かたもり)らの排除を目的として挙兵し、京都市中で市街戦を繰り広げました。

特に、この蛤御門の周辺で、長州藩の兵と会津・桑名藩の兵が激しくぶつかり、そこに薩摩藩の兵が参戦したことで、最大の激戦地となりました。最終的には長州藩の敗北で終結しますが、この戦いがかの有名な「蛤御門の変(禁門の変)」です。今も蛤御門の梁(はり)には、鉄砲の弾の痕が無数に残っており、その戦いが如何に激しかったかを物語っています。

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京都御苑の七不思議:その7「桜松(さくらまつ)」

京都御苑のほぼ真ん中、京都御所の南東にある建春門(けんしゅんもん)の前の学習院跡に「桜松(さくらまつ)」と呼ばれる横たわった樹木があります。「桜か、松か、どっち?」と言いたくなるような名が付いていますが、そう名付けられた理由は、一見すればすぐにわかります。この桜松はなんと松の木から桜の木が生えているのです。誰が一体こんなことを! これも、人間が成した悪行か!と思いきや、自然が作り上げたものだったのです。

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1955(昭和30)年頃、まずこの地に樹齢60年は越えているであろう大きなクロマツがありました。そのクロマツの幹の窪みに、野鳥が運んできたヤマザクラの種が落ちて芽吹き、成長し続けて、クロマツの幹の内部に根を伸ばし、根は何年もかけて地面の中にまで達したのです。その間、ヤマザクラはクロマツの樹上に枝を広げ、花を咲かせたのです。それをいつしか、誰言うことなく、「桜松」とか「松木の桜」と呼ぶようになったのです。

その後、1993(平成5)年に、クロマツはマツ枯れ病で枯れ死してしまいましたが、ヤマザクラはそのまま咲き続けました。ところが、1996(平成8)年、その年の満開が過ぎた頃に、突然、桜松は倒れてしまったのです。普通なら、この段階で撤去されるところですが、御苑の管理事務所の人たちは、倒れた桜松の根に土を盛って、経過を見ることにしたのです。なんて、心優しいこと!

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その甲斐があって、今も「桜松」は倒れたままの不思議な姿で、ヤマザクラの花を見事に咲かせ続けています。

最後に余談になりますが、京都御苑は桜の名所として知られており、桜の種類もヤマザクラやシダレザクラ、サトザクラなど種類も多く、その本数は1000本以上あるそうなのですが、実は、日本の桜を代表するソメイヨシノは1本もないのです。その理由は何もわかりません。もしかすると、京都御苑の最大の不思議は、ソメイヨシノが1本もないことかもしれませんね…。

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京都御苑:京都市上京区京都御苑3 TEL : 075-211-6348

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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