釈迦如来立像 ~清凉寺に伝わる生身のお釈迦さま

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千年の都・京都には、国宝や重要文化財に指定されている仏像が数多くあります。例えば、日本で最も美しい仏像のひとつ、広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)」、口から6体の阿弥陀様が現れたという伝承を表現した六波羅蜜寺の「空也上人立像(くうやしょうにんりつぞう)」、後ろを振り返る慈悲深い姿をした永観堂の「阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう:みかえり阿弥陀)」など、どれも一度は拝観しておきたい仏像ばかりですが、清凉寺の「釈迦如来立像(しゃかにょらいりゅうぞう)」もそのひとつです。

今回は生前のお釈迦さまの姿を写したと言われている清凉寺の「釈迦如来立像」の話をしましょう。

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釈迦如来立像が安置されるまでの軌跡

京都の人気観光スポットのひとつ、嵐山の渡月橋から長辻通を北へ800mほど上がったところに、浄土宗の古刹「清凉寺(せいりょうじ)」があります。

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通称、嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)とも呼ばれるこの寺院は、もとは平安時代に紫式部が書いた「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルとされる、嵯峨天皇の12番目の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘「栖霞観(せいかかん)」だったところです。

少し余談になりますが、源融が実際、“光源氏”ほどのプレイボーイだったかどうかはわかりませんが、社交や政治に腕を振るった融は、平安時代屈指の名邸「河原院(東六条院)」を営み、“河原院殿”や“河原左大臣”などとも呼ばれ、たいへんな財力と権力の持ち主だったと言われています。世界文化遺産に登録されている宇治の平等院も、もとは融の別荘だったというから、ホント、驚きですよね。ーーー閑話休題。

その源融が亡くなり、一周忌に当たる896(寛平8)年に、栖霞観に阿弥陀三尊像を本尊として安置されたことにより、栖霞観は寺となり、名も「棲霞寺(せいかじ)」と改められました。それから半世紀ほど後の945(天慶8)年に、醍醐天皇の皇子・重明親王(しげあきらしんのう)が亡き妻のために棲霞寺の境内にお堂を建て、そこに釈迦如来像を安置したことから、そのお堂は「釈迦堂」と呼ばれるようになりました。

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その後、中国の宋にある五台山(ごだいさん)を巡礼した東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、987(永延1)年に帰国すると、京都の愛宕山を中国の五台山に見立て、寺院を建立しようと計画しましたが、その志を果たせず亡くなってしまいます。しかし、その遺志を奝然の弟子・盛算(せいさん/じょうさん)が継ぎ、1016(長和5)年に棲霞寺の境内に清凉寺を創建したのです。この時、清凉寺に本尊として安置されたのが、奝然が中国から持ち帰ったとされる「釈迦如来立像」です。

日本三大如来のひとつ「釈迦如来立像」

奝然が中国・宋に入ったのは983(永観1)年のこと。その2年後に、熱心な仏教徒であった古代インド・コーシャンビーの国王・優填王(うでんおう)が、存世していた時の釈迦の姿を彫らせたとされる釈迦像「優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)」に出会いました。

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インドから中国に持ち込まれたこの釈迦像は、釈迦が37歳の時の姿だと言われているのですが、その姿に心打たれた奝然は、その釈迦像を仏師に“魏氏桜桃(ぎしおうとう)”という中国産のサクラ科の木を使って精密に模刻させました。そして、987(永延1)年に日本に持ち帰ったのです。ただ、一説によると、奝然は本物の像と模刻した像をすり替えて、本物の像を持ち帰ったとも言われているのですが…。

清凉寺の釈迦堂宮殿(しゃかどうくうでん)に安置されている国宝・釈迦如来立像は、インドから中国、そして日本に渡ってきたことから「三国伝来の生釈迦」と呼ばれ、京都・平等院の薬師如来像、長野・善光寺の阿弥陀如来像と並ぶ日本三大如来のひとつに数えられています。

10世紀末頃の中国の医学知識を知る世紀の大発見

高さ162cmの釈迦如来立像は、見慣れた日本の仏像とは異なり、どこかエキゾチックな雰囲気が感じられます。それはこの像のルーツが古代インドで作られた仏像であるためか、ガンダーラの仏像によく見られる縄を編んだような頭髪、意志の強さを示すかのような大きな眉と引き締まった鼻筋、体に張り付いた水紋のようなひだのある薄い衣など、当時の日本の仏像にはない特徴が異国情緒を醸し出しています。

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1953(昭和28)年に像の調査が行われましたが、その際に背中にフタがあることがわかり、そのフタを開けてみると、像の体内から驚くべきものが見つかりました。それは絹で作られた五臓六腑の模型。これには「雍熙(ようき)2年」と中国・北宋の年号が書かれていることから、奝然がこの仏像を彫らせた時に収められたものであることがわかり、世紀の大発見として当時の大ニュースにもなったそうです。この五臓六腑の形状には、今に通じる正確さがあり、1000年以上も前の中国の医学知識を知る上でとても貴重な資料となっています。

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この調査では、五臓六腑の模型以外にも、顔の額の部分に銀の仏像、眼には黒水晶、耳には水晶がはめ込まれ、像の霊魂として水月観音が彫られた鏡が体内に入れられていることが判明しました。また、鎌倉時代を代表する仏師・快慶が、1218(建保6)年に像を修復したという記録も残されていました。

その他に、奝然の手形を捺した文章や奝然の生誕を顕す臍の緒(へそのお)書きなどの奝然の遺品も納められていました。このようなことからも、奝然のこの像に対する並々ならぬ思いが伝わってきます。

善男善女に信仰される生身のお釈迦さま

鎌倉時代には「釈迦如来に還れ」と提唱されたことから、釈迦如来像が多く造られるようになりました。特に清凉寺の釈迦如来立像は“生身の釈迦像”として信仰を広く集めたことから、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる模刻が全国各地に安置されました。その数は100体近くあるとか…。釈迦如来立像は誕生して1000年余り、今も多くの人々から厚く信仰されています。

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清凉寺:京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46 TEL : 075-861-0343

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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