千利休 ~切腹の日

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

1591(天正19)年2月28日、朝から雷鳴が鳴り響く大荒れの日に、茶の湯の大家、千利休(せんのりきゅう)が豊臣秀吉から切腹を命じられ、自害しました。

千利休は“侘び茶(わびちゃ)”を大成した高名な茶人で、武士ではないことは誰しもが知るとおりです。そもそも切腹は武士にだけ許された刑であり、町人や農民は切腹をすることは出来ませんでした。それなのに、利休は茶の湯の弟子でもあった蒔田淡路守(まいた あわじのかみ)の介錯によって見事な切腹を遂げたのです。その潔さは並みの武士以上のものだったと言われています。

それにしても、茶人であった千利休はどうして切腹をすることになったのでしょうか…。今回は千利休が切腹をするに至った経緯について、話をしましょう。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

“侘び茶”を大成した宗易

senno_rikyu 01

千利休は1522(大永2)年に、大阪の堺にある魚問屋「ととや」に生まれました。名は“田中与四郎”、号は“宗易(そうえき)”。宗易は16歳で茶の湯を志し、18歳になると当時の茶の湯の第一人者「武野紹鴎(たけの じょうおう)」の門を叩きました。

その頃、紹鴎は「侘び茶の祖」と呼ばれた村田珠光(むらた じゅこう)が説いた“不足の美(不完全が故に美しい)”に禅思想を取り入れることで、茶の湯を簡素化し、“侘び”を追求していました。宗易はそれを更に進め、“侘び”の対象を茶道具だけではなく、茶室の造りやお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大させ、“侘び茶”を大成させたのです。

senno_rikyu 03

その後、宗易は織田信長に仕えますが、信長は1582(天正10)年6月1日の夜に、明智光秀の謀反、いわゆる「本能寺の変」によって炎に散ってしまいます。この信長の死が、その後の宗易の運命を大きく変えることになるのです。この時、宗易60歳…。

豊臣秀吉との蜜月の始まり

本能寺の変から2週間ほど経った6月13日の午後4時過ぎ、宗易は京都の山崎にある妙喜庵(みょうきあん)というお寺で、ある戦の戦況の知らせを待っていました。その戦とは、主君・織田信長を討った明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉の間で繰り広げられた天下分け目の“天王山の戦い(山崎の合戦)”です。

天王山の戦いは数時間で勝敗が決し、秀吉の勝利で終わりました。その知らせを聞いた宗易は早速、秀吉が陣を敷く宝積寺に赴き、秀吉を讃える勝利の茶を点てました。

その後、秀吉は天王山に築城し、宗易も妙喜庵に茶室「待庵(たいあん)」を建てました。このような宗易の行動からすると、この時点では、宗易の方が秀吉を気に入っていたように伺えます。また、信長以上に茶の湯に熱心だった秀吉も、その世界で絶大な人気を誇る宗易に好かれることは決して悪い気はしなかったことでしょう。この頃より、秀吉と宗易との蜜月が始まることになります。

senno_rikyu 02

茶聖、千利休の誕生

1585(天正13)年、関白に就任した秀吉は返礼の意味で、皇居の中で自らが茶をたてる「禁裏茶会(きんりちゃかい)」を執り行いました。この特別な茶会を秀吉は宗易に仕切らせたのですが、そのために宗易は天皇から「利休」の号を賜ることになりました。このことで、「千利休」という名前は天下一の茶人として全国に知れ渡ることとなったのです。この時、宗易は既に63歳。千利休という名前があまりにも有名なので、若い頃からの名前かと思っていましたが、晩年になってからの名前だったんですね。

利休が演出した史上最大の茶会

senno_rikyu 07

それから2年後の1587(天正15)年、九州を平定した秀吉は、名実ともに天下人となります。その祝勝と権力を内外に誇示する目的で、かの有名な、史上最大の茶会と言われる「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」が北野天満宮で執り行われました。もちろん、総合演出は利休。天満宮に設けられた茶席は800ヵ所以上だったそうで、公家や武士のみならず、町民や百姓も参加できた、まさに国民的行事と言える茶会だったのです。利休が演出した茶会は大成功で、秀吉は自ら茶を点てて、参加者にふるまうほど大満足でした。

ところが、秀吉と利休の蜜月はこの北野大茶湯がピークで、やがて、2人の関係は悪化していくことになるのです。

定められた運命への道程

1590(天正18)年、利休にとって衝撃的な事が起きます。秀吉が北条氏を小田原で攻略した際、利休の愛弟子であった山上宗二は、秀吉から口の利き方が生意気だと難癖を付けられ、なんとその日のうちに耳と鼻を削がれて処刑されてしまいました。

愛弟子を殺されたことに恨みを抱いていた利休は、その翌年の1月13日に行われた茶会で、「黄金の茶室」を作るぐらいに派手好きな秀吉が黒色を嫌うことを知っていながら、「黒は古き心なり」として、平然と黒い茶碗に茶を点て、秀吉に出しました。これによって、秀吉はメンツを潰され、家臣を前にして大恥を掻くことになったのでした。

それから9日が経った22日、諸大名に対して「内々のことは利休に、公のことは秀長に」と言うほどに利休のことを重用していた秀吉の弟・秀長が病死します。この秀長の死によって、利休は最大の後ろ盾を失うことになってしまいました。

そして、それから1ヶ月後の2月23日。秀吉は利休に「京都を出て、堺の自宅で謹慎せよ」という命令を下しました。この突然の命令を下した理由は、利休が修行している大徳寺の山門を利休の寄付で2年前に改修した折に、その山門の上に利休の像を置いたところ、秀吉が山門を潜るにあたって、上から見下ろすとは無礼極まりないということでした。

senno_rikyu 06

この山門に置かれた利休像は、正確には利休が願って置いたものではなく、利休からの寄付に対する御礼の意味で、大徳寺が置いたものだったのです。しかも、2年も前のこと。そういうことからすると、この命令は、利休のことを日頃から疎ましく思っていた秀吉の嫌がらせだったのではないかと思うのです。

秀吉はこの命令を利休に下しても、利休はすぐに赦しを請いに来るだろうと高を括っていました。そして、詫びをすれば許そうと…。また、秀吉の家臣であった前田利家も秀吉の意を汲んで、利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻・ねねを通じて詫びを入れれば許されるという旨を利休に伝えました。しかし、利休は謝罪することなく、堺へ戻って行ったのでした。これで、秀吉の怒りはついに爆発するのです。

senno_rikyu 05

利休、最期の日

2月25日、利休像は大徳寺の山門から下ろされ、堀川に架かる一条戻り橋の袂に磔にされました。それでも怒りが治まらない秀吉は、利休を京に呼び戻し、28日に切腹の命を利休に下すために使者を送りました。

使者が利休に秀吉からの命を伝えると、利休は静かに「茶室にて茶の支度が出来ております」と言って、使者に生涯最後の茶を点てました。そして、その後、脇差しを腹に突き立てたのです。享年69歳。

利休の首は磔にされた利休像に踏みつけられる形で晒され、この利休の首を見るために、連日、民衆が列をなしたと言われています。

切腹の本当の理由は?

このように利休の切腹の原因は、大徳寺の山門に置かれた利休像が公のものとされていますが、その他にも、秀吉の朝鮮出兵を批判したためとか、安い茶道具を高値で売って至福を肥やしたとか、秀吉が利休の娘を側室に望んだのを断ったためなど、諸説あって、本当のところの切腹の理由は今も謎のままなのです。ただ、茶の湯についての考え方が、派手好きの秀吉と侘び寂びを好んだ利休との間で、相容れなくなったことが理由のひとつであることは間違いのないことなのではないでしょうか。

千利休、辞世の句

千利休 辞世の句

『人生七十 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這寶剣(わがこのほうけん) 祖佛共殺(そぶつともにころす) 堤る我得具足の一太刀(ひっさぐる わがえぐそくのひとたち) 今此時ぞ天に抛(いまことのきぞ てんになげうつ』

・・・・“人生七十年、エイ!ヤー!(気合いの掛け声)私のこの宝剣で、仏も私と共に殺してしまえ。上手く使いこなすことのできる刀を引っさげて、今、天にこの身を放つ”

商人の家に生まれ、茶人となり、最期は武士の如く、切腹で生涯を閉じた千利休。この利休も戦国の世に生きたひとりだったのです。

senno_rikyu 04

妙喜庵:京都府乙訓郡大山崎竜光56 TEL : 075-956-0103

北野天満宮:京都市上京区馬喰町 TEL : 075-461-0005

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA