京の七不思議 その18『東寺の七不思議』

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国家鎮護の寺院

世界文化遺産のひとつに登録されている「東寺(とうじ:正式名 教王護国寺(きょうおうごこくじ))」は、794(延暦13)年の平安京造営から2年後に、国家鎮護のため平安京の正門である羅城門の東側に創建されました。

その後、823(弘仁14)年に嵯峨天皇により真言宗の宗祖・弘法大師空海に下賜され、国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となり、皇族、貴族から庶民まで広く信仰を集め、中世以降も後醍醐天皇や足利尊氏などの多くの為政者から援助を受けて栄えました。

1486(文明18)年の大火により主要な建物はほとんど焼失してしまい、現在の金堂や五重塔などの伽藍は豊臣家や徳川家などによって再建されたもので、創建当時の建物は残っていませんが、東寺にも多くの不思議が今も語り伝えられています。

今回は弘法大師空海ゆかりのお寺「東寺」の七不思議の話をしましょう。

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東寺の七不思議とは!?

東寺の七不思議:その1「猫の曲がり」

東寺の周囲を巡らす築地塀(ついじべい)の南東角辺りは「猫の曲がり」と呼ばれ、魔物が棲んでいる場所だと考えられていました。この角の前を通ると不吉なことが起きると言われ、縁起が悪いということで、今でも京都人の間では婚礼の時、花嫁を乗せた車はこの角の前を通らないという暗黙の了解があるのだそうです。

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平安京は方角を司る四神(しじん)である玄武(げんぶ)、蒼龍(そうりゅう)、朱雀(すざく)、白虎(びゃっこ)が守護する「四神相応の地」として造られましたが、この「猫の曲がり」にはその四神のひとつ、白虎の像が明治の初めの頃まで置かれていたそうです。その白虎の像が猫に見えたということで、この角を「猫の曲がり角」、略して「猫の曲がり」と呼ばれるようになったと言われているのですが、一体、何のために白虎の像が置かれたのでしょうね。

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四神とは4体の神獣のことで、北を守護するのが玄武、東を守護するのが蒼龍、南を守護するのが朱雀、そして、西を守護するのが白虎です。ということは、白虎の像が南東角に置かれるということは本来ならあり得ないことなのです。白虎の像が置かれていたことが事実であるなら、その理由は何だったのか。そして、守護神である白虎が置かれた場所が何故、魔物が棲んでいる不吉な場所と言われるようになったのか。「猫の曲がり」はそんな謎の多い、不思議な場所なのです。

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因みに「猫の曲がり」と呼ばれるようになった説は他にもあって、この角が日当たりが良いことから、野良猫が好んで住み着き、たくさんの猫がたむろしていたからという説もあるようです。この「野良猫たむろ」説の方が名付けられた場所名に相応しいように思えますが、七不思議とするならば「白虎の像」説の方がミステリアスで相応しいでしょうね。

東寺の七不思議:その2「不開門(あけずのもん)」

東寺の正門は南面にある南大門ですが、東寺の東面にも重要文化財に指定されている2つの門があります。

そのうちの1つ、北側の門は慶賀門(けいがもん)という名の門で、JR京都駅から一番近い門であることや、門の近くにバス停や駐車場の入り口があることから、東寺では最も人の出入りが多い門ですが、もうひとつの門、東大門(ひがしだいもん)を出入りする人はひとりもいません。しかし、それは当然のことで、東大門の扉は固く閉ざされていて、出入りすることが出来ないからです。出入りが出来ない門とは何とも奇妙なことですが、今から680年ほど前に起きたある出来事があって以来、この東大門は閉ざされたままで、そのために「不開門(あけずのもん)」と呼ばれているのです。

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1336(延元1)年6月、足利尊氏の同母弟である足利直義(あしかが ただよし)が率いる軍勢は、比叡山にいる後醍醐天皇を攻めましたが、天皇方の反撃により大打撃を受け、その知らせを受けた尊氏は直義にいったん東寺まで退却するように命じ、尊氏自身も東寺に陣を構えました。

天皇方の新田義貞(にった よしさだ)や名和長年(なわ ながとし)らの軍勢は東寺へ攻め入り、その攻撃は激しく、足利軍の兵は東大門から東寺の境内へ逃げ込んでいきました。そして、兵がすべて境内に入ったところで、すぐさま東大門は閉じられたのです。

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新田義貞は東寺に逃げ込んだ足利尊氏と一騎討ちをするために東大門の前で待ち続けましたが、一向に東大門が開く気配はなく、義貞は仕方なく東寺から退去しました。

このように、新田義貞に攻められたときに門を閉ざして開けられなかったことから、東大門は不開門(あけずのもん)と呼ばれるようになったのです。「不開門」は“あずのもん”と読むのが一般的ですが、“あずのもん”と読むのは、門が開かなかったのではなく、開けなかったからなんですね。

因みに、この戦いの後、不開門は一度だけ開いたことがあるようなのです。記録によると1423(応永30)年5月9日に、今で言えばゲリラ豪雨のような大雨が降り、突風が吹き、その風のせいで不開門のかんぬきが折れてしまい、扉が開いたそうです。戦であっても開くことのなかった不開門も、自然の力には為す術はなかったようです。

東寺の七不思議:その3「天降石(てんこうせき)」

正門の南大門から入った境内の奥に、僧侶たちの生活の場であり、修行の場でもある「食堂(じきどう)」という建物があります。その西側に弘法大師空海の住まいだった「御影堂(みえいどう)」のある区画がありますが、その区画の一角に宝塔や石碑がいくつも並べられている場所に「天降石(てんこうせき)」と呼ばれる石が置かれています。

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この石の由来を解き明かすものは何もなく、“天から降ってきた石”といわれ、いつの頃からか「天降石」と呼ばれるようになったそうです。この石はかなり古くからこの場所にあって、江戸時代の頃には「不動石」や「五宝石」、または「御法石」とも呼ばれ、民衆の間で信仰の対象になっていました。

石柵に囲まれた四方80センチ程度の天降石は、一見する限り、何の特徴もないただの石のようですが、お賽銭や白米を供えて石を撫で、その撫でた手で自分の体の悪い部分を擦ると、悪いものが消えて治ると言われています。

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この石のご利益は評判が高かったようで、病気で苦しむ人がたくさん訪れて石を撫でるので、逆に病原菌の媒介になると言われるようになり、明治の中頃には石を撫でることを禁止する制札が立ったり、昭和4年頃にも同じような問題が起きたというエピソードが残されています。人々の信仰が厚い「天降石」は、由来のまったくわからない石ですが、天から降ってきた石だけに秘められたパワーを持った石なのかもしれませんね。

東寺の七不思議:その4「穴門(あなもん)」

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南大門から西へ40メートルほど離れたところに、築地塀を切って扉を付けただけの簡素な門があります。この門は「穴門(あなもん)」、もしくは「畜生門(ちくしょうもん)」と呼ばれています。どちらもお寺に相応しくない下品な名称が付けられていますが、それはどうやら、この門の用途に関係しているようです。

穴門はいつの頃に造られたものかは定かではありませんが、江戸時代、修行の身でありながら男女関係において、道徳に反する行為、つまり不倫をした僧を破門するときに使われた門だと言われています。不倫が発覚した僧は、着ている袈裟衣をはぎ取られ、この穴門から外へ放り出されたそうです。

このように穴門は人が出入りするための門ではなかったために、門らしくない簡素な造りになっていると考えられます。「穴門」と呼ばれたのも、その簡素さから築地塀に穴を開けただけということで付けられたのかもしれません。

また「畜生門」と呼ばれた理由は、不倫という行為は仏の弟子としてあるまじき行いであって、それは畜生がすることだということから、畜生が通る門ということで「畜生門」と呼ばれたようです。

ところで、そのような用途の門であるならば、本来なら目立たないお寺の裏側などにありそうに思うのですが、穴門は南大門と同じ南面、つまり東寺の正面にあります。それは単なる偶然なのでしょうか、それとも、戒めのためにわざと人目につく位置に穴門を造ったのでしょうか…。それを知る術は今は何もありません。

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東寺の七不思議:その5「宝蔵(ほうぞう)」

「宝蔵(ほうぞう)」は“宝(たから)”の“蔵(くら)”と字が示すとおり、多くの寺宝が納められていた建物です。

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創建当初は南北に2棟あったそうで、弘法大師空海が中国・唐の恵果国師(けいかこくし)から授かった仏舎利、五大尊、密教法具、曼荼羅、袈裟などが納められていました。

宝蔵は京都では珍しい校倉造り(あぜくらづくり)で、柱を使わずに、木材を井桁(いげた)に組む工法によって建てられています。この工法は北欧やロシアなどの木材が豊富な国でよく行われるもので、ログハウスもこの工法のひとつです。

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余談ですが、日本で校倉造りと言えば、奈良・東大寺にある正倉院が有名で、納められていた宝物の保存状態が極めて良かったことから、校倉造りは調温調湿機能に優れていると言われていました。ところが最近の研究結果により、保存状態が良かったのは、校倉造りという工法のためではなく、使用されていた木材の材質と、桐箱をいくつも重ねた中に宝物を入れた保管方法によるものであることがわかっています。

寺伝によると、宝蔵は1000(長保2)年と1126(大治1)年の2度、焼失していますが、中の宝物は無事、運び出されたとあります。

現在の宝蔵は真言宗の僧・文覚(もんがく)上人により1198(建久9)に再建されたもので、「文覚の校倉」とも呼ばれていました。

ところが最近、行われた解体修理により、現在の宝蔵は東寺が創建された時代に近い頃に建てられたものであることがわかったのです。ということは、長年、言い伝えられてきた2度の火事と文覚による再建は事実ではなかったということなのでしょうか…。それはそれで不思議なことですよね。

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東寺の七不思議:その6「蓮華門(れんげもん)」

東寺を囲む築地塀には、南北に1ヵ所ずつ、東西に2ヵ所ずつの計6つの門があります(前出の穴門は門ではないとされています)が、その門の中で唯一、国宝に指定されている門が「蓮華門(れんげもん)」です。因みに他の5つの門はずべて重要文化財に指定されています。

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蓮華門は境内西側を東西に通る壬生通(みぶどおり)に面した西門で、この門にも東大門と同じように「不開門」という呼び名が付けられています。但し、こちらは“あずのもん”ではなく“あずのもん”と読みます。

現存する東寺の門のうちで最も古いとされている蓮華門は、鎌倉時代の1191(建久2)年に文覚上人が東寺を再興した折に建造されました。三間一戸の八脚門(やつあしもん)で、屋根は本瓦葺きの切妻造りのバランスのとれた美しい形の門です。

蓮華門は奈良時代からの古式を踏襲した造りが基本になっていますが、天井には鎌倉時代の技法のひとつである格子の組入天井を取り入れるなど、日本建築の変遷を知る上で貴重な門とされています。

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さて、この蓮華門という名前の由来についてですが、弘法大師空海が死期を悟り、高野山に隠棲するためにこの門から出ようとしたとき、不動明王が空海を見送るために現れ、涙を流して別れを惜しんだそうです。その時、不思議なことに空海の足もとにハス(蓮華)の花が咲いたと言われています。このようなことがあって以来、この門は「蓮華門」と呼ばれるようになったそうです。

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それにしても、怖い顔をした不動明王が泣くとは、空海という人はそれほどに慈悲深い人だったということなのでしょうか…。

東寺の七不思議:その7「瓢箪池(ひょうたんいけ)」

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東寺のシンボルとも言える五重塔のすぐ北側に「瓢箪池(ひょうたんいけ)」と呼ばれる池があります。この瓢箪池を手前にして、池とともに眺める五重塔は絵になるので、瓢箪池は池泉回遊式庭園の要素のひとつとして造られた池かと思ったのですが、実はそうではなく、造られた理由は他にあったようです。

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時は江戸時代。京都に強風が吹き、その風で五重塔が南に傾いてしまいました。傾いた五重塔をまっすぐに戻すには、一度、解体して建て直すしかない…。でもあれだけの大きな五重塔を建て直すのは並大抵なことではありません。他に手はないだろうかと考えたところ、もしかすると、傾いた方向の反対側の地面に穴を掘れば、五重塔は元に戻るのでは?と思いつき、実際に五重塔の北側に大きな穴を掘ってみたところ、なんと傾いていた五重塔はまっすぐに戻ったのです。

その後、その穴に雨水が溜まり、池のようになりました。それが現在の瓢箪池というわけです。

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さて、この話、信じるか信じないかはさておき、もしこの方法で五重塔ほどの大きな建物の傾きを直すことが出来るのなら、ピサの斜塔もまっすぐに戻せるかも!なんてふと思ってしまいました。

教王護国寺(東寺):京都市南区九条町1 TEL : 075-691-3325

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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