安井金比羅宮 ~京都最強の縁切り神社

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独特の精神世界を刺激的に展開する女流作家・田口ランディ氏の短編小説『縁切り神社』。この物語は、京都を旅するひとりの女性が偶然、ある神社に迷い込むところから始まります。このある神社というのが、京都で最強の縁切り神社と言われている「安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)」です。

今回は、悪縁をバッサリと切ってくれると評判の縁切り・縁結びの神社、「安井金比羅宮」の話をしましょう。

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繰り返し改称された神社

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京都東山、建仁寺の東に位置する安井金比羅宮。その歴史は古く、日本初のクーデターといわれる「大化の改新」を起こした中心人物とされる藤原鎌足(ふじわらのかまたり)がこの地に藤を植え、藤原家の隆盛と子孫繁栄を願って「藤寺(ふじでら)」を建てたのが始まりです。つまり、もともとはお寺だったわけです。

その後、後白河天皇の命により「光明院 観勝寺」と名が改められましたが、応仁の乱によって荒廃してしまいました。しかし、江戸時代の1695(元禄8)年に太秦安井という場所にあった「蓮華光院」というお寺が移設された折に、崇徳天皇を御祭神とし、讃岐の金比羅宮から迎えた大物主神(おおものぬしのかみ)と源頼政を祀ったことから再興され、“安井の金比羅さん”と呼ばれるようになりました。

そして、明治時代になって行われた廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、“安井の金比羅さん”は大覚寺に没収され、「安井神社」と改称され、更に1945(昭和20)年、太平洋戦争が終わった後に「安井金比羅宮」とまたまた改称され、現在に至っています。

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悪縁を断ち切り、良縁に転じる碑

安井金比羅宮の本殿脇には、無数のお札のような短冊状の白い紙が貼り付けられた、こんもりとした奇妙な物体がありますが、これがこの神社を訪れる多くの人が目的とする「縁切り縁結び碑(いし)」です。

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尋常ではない数の紙が貼られているために,その原形はよくわかりませんが、「縁切り縁結び碑」は高さ1.5メートル 、幅3メートルの絵馬の形をした巨石で、中央下方には人ひとりが何とか通り抜けれるほどの穴がぽっかりと開いています。碑に貼られている紙は「形代(かたしろ)」といって、身代わりになると言い伝えられているお札です。

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願掛けをするには、ご本殿にお参りをした後、形代の右側に“結びたい良縁”を、左側に“切りたい悪縁”をそれぞれ記入し、その形代を手に持って碑にある穴を手前から奥に向かってくぐります。これによって、まず悪縁が切れ、今度は奥から手前にくぐることで良縁を授かると言われています。碑の中央には亀裂があるそうで、神様のパワーがその亀裂を通って穴に注がれているために、穴をくぐることで神様のパワーを授かり、ご利益が得られると考えられているのです。この一連の奇妙な行いをした後、形代を碑に貼って祈願すれば、願掛けは終了です。

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由来は崇徳上皇の行いにあった!?

安井金比羅宮が縁切り・縁結びの神社となったその由来は、この神社の御祭神である崇徳天皇にあります。

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第75代崇徳天皇は、父親が第74代鳥羽天皇、母親が藤原璋子(ふじわらのしょうし 女院号:待賢門院(たいけんもんいん))とされていますが、実は母親の璋子が、祖父である第72代白河法皇と密通して生まれた子どもだと言われていて、それを確信していた鳥羽天皇は、崇徳を酷く嫌っていたようです。

そういったことから、崇徳が天皇になっても実質的な権限を持たされず、ついには天皇の座からも下ろされてしまいました。上皇になった後もすべての権限を奪われ、そんな仕打ちに腹を立てた崇徳上皇は、藤原頼長らと共謀して1156(保元1)年に「保元の乱」を起こしました。しかし、それも平清盛らに制圧され、クーデターは失敗に終わり、崇徳上皇は讃岐(現:香川県)に流され,軟禁されてしまったのです。

崇徳上皇は讃岐にある金刀比羅宮に籠もり、すべての欲を断ちきる生活を送りました。そこで、クーデターを起こしたことで戦死した人の魂を供養して欲しいとして写経をし、それを朝廷に送ったところ、朝廷は「その写経にはきっと呪詛が込められている」として、崇徳上皇に突き返したのでした。

怒り狂った崇徳上皇は舌をかみ切り、自らの血で「我、日本国の大魔王となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」としたため、悪霊となることを誓い、恨みを残して亡くなったのです。

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その後、朝廷にゆかりのある人たちは相次ぎ亡くなり、都では疫病が流行り、火事や地震が起きました。それは、すべて崇徳上皇の怨念がなすこととして、上皇の霊を丁重に祀ったところ、平穏な都に戻ったのです。

このように生まれたときから不遇な境遇に置かれた人生を歩んだ崇徳天皇ですが、この安井金比羅宮の縁切りのご神徳は、讃岐に流された折に金比羅宮で、欲を断ちきったということに由来しているわけなのです。

切りたくても切れない人の縁

「縁切り縁結び碑」が境内に置かれたのは1978(昭和58)年と、意外に新しいものなのですが、碑に貼られている形代は一度も剥がされたことはなく、正確にはわかりませんが、その枚数は20万枚以上あるとか…。それほどに世の中には、切りたくても切れない人と人とのの繋がりがあるということなのでしょうか…。

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安井金比羅宮:京都市東山区東大路松原上ル下弁天町70 TEL : 075-561-5127

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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