足抜き地蔵 ~女郎と織物職人の恋から生まれた地蔵伝説

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昔は“カシャンカシャン、カシャンカシャン”と機織りの音が家々から鳴り響いていた西陣。今では、その音を耳にすることはほとんどありませんが、小さな路地が入り組んだ町並みには昔ながらの懐かしい風景が残されています。

その西陣の中ほどにある妙蓮寺(みょうれんじ)の南、妙蓮寺前町にある、“灰屋図子(はいやずし)”と呼ばれる鉤状の細い通りの中ほどに、しっかりと雨除けがされた小さな祠があります。その中には5体のお地蔵さんが鎮座していて、そのうちの1体が「足抜け地蔵(あしぬきじぞう)」というちょっと面白い名前で呼ばれるお地蔵さんです。今回は、今も西陣の安全の守り神として街の人たちに親しまれている「足抜き地蔵」の話をしましょう。

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「灰屋図子」の由来

京都の通りには独特の区別があって、大きな通りを“大路(おおじ)”、大路より細い通りを“小路(こうじ)”、別の通りとつながっている狭い通りを“図子(ずし:辻子とも書く)”、袋小路になっていて通り抜けられない狭い通りを“路地(ろーじ)”と呼んでいます。

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この「足抜き地蔵」がある“灰屋図子”も人がすれ違うのもやっとといった感じの狭い道幅の通りですが、南北朝時代、この地域に京の豪商で文化人でもあった“灰屋紹益(はいや じょうえき)”とその一族が住んでいたことから、灰屋図子と呼ばれるようになったそうです。

紹益は島原一の名妓と謳われた有名な「二代目吉野太夫(よしのたゆう)」を公家の近衛信尋(このえ のぶひろ)と争って、妻にしたことでも知られている人物です。図子の名称には、大概、何らかの謂れがあって、調べてみると意外なことが判ったりして、なかなか興味深いものです。

女郎の思いきった決断

さて、この「足抜き地蔵」ですが、実はもとからこの場所にあったものではなく、江戸時代の末期に、京都の遊郭「島原(しまばら)」の大門脇にあったお地蔵さんだったそうで、そこにあった時は「足止め地蔵」と呼ばれていたそうです。「足抜き地蔵」の話はその島原から始まります。

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江戸時代以来の公許の花街として賑わい、幕末の頃には、新選組もよく利用したと言われる京の遊郭、島原。この島原で働く名もない女郎と西陣の織物職人の若い男が、お互い惚れ合って道ならぬ恋に落ちてしまいました。

好きで好きでたまらないふたり。男は女郎を身請けしようと思うのですが、西陣の職人と言えども下職の若者。そんなお金があるはずもありません。しかし、ふたりの思いはつのるばかり…。いっそうのこと、心中するかとさえ考えましたが、死んで花実は咲くものかと女郎はついに一大決心をしたのです。それは“足抜け”、つまり、郭(くるわ)から無断で逃げようと…。

「あの人と一緒になるには、足抜けをするしかない」

ところが、そう思った途端、女郎の頭に、島原にある恐ろしい“足止め地蔵”のことが浮かんできたのです。

女郎の一途な想い

女郎が足抜けをすると、その郭の女将は“足止め地蔵”にお参りし、女郎が見つかりますようにと祈願します。すると、不思議なことに必ず、3日も経たないうちに、逃げた女郎は見つかり、島原に引き戻されてくるのです。まさに、その名の通り、足止め地蔵には女郎の足止めをする効力があったのです。そして、足抜けをした女郎は御法度を犯した者の見せしめとして、残酷な仕打ちを受けます。鞭で打たれたり、井戸の中に一晩中、逆さ吊りにされたり…。それは酷いもので、中には命を落とす女郎もいたそうです。

その恐ろしさに誰しも身震いし、そんな大それたことは止めようと考えるのが普通。ところが、この女郎は何が何でも男と一緒になるという信念のもとに、とんでもないことを思いついたのです。

「あの足止め地蔵さえ、どこかへやってしまえば、うまく逃げおおせるかもしれない…」

そして女郎は、月明かりのない夜に、こっそりと郭から抜け出し、足止め地蔵を背負って、北へ1里半(約6km)、恋しい男が待っている西陣の灰屋図子へ向かったのです。

女郎は必死の思いで何とか夜明け前に灰屋図子にたどり着きましたが、その中ほどまで歩いたところで精根尽き、バッタリと倒れてしまいました。因みにその倒れた場所というのが、現在、足抜き地蔵の祠がある所だと言われています。

女郎は、その後、愛する男の介抱を受け、元気になり、追っ手に追われることなく、2人はそのまま幸せに暮らしたそうです。女郎の恋する男への思いが成就したわけですね。

そして、図子の中ほどに放置された「足止め地蔵」は、新しく建てられた祠の中に安置され、女郎が無事に足抜けできたことから、いつしか「足抜き地蔵」と呼ばれるようになったのです。

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後日談:足抜き地蔵のお告げ

ところで、この「足抜き地蔵」には後日談があります。それは昭和の時代になってからのことなのですが…。

島原の楼主は、足抜き地蔵はもともとは島原にあった地蔵なので、是非、引き取りたいとして、妙蓮寺前町の人たちに相談を持ちかけて来ました。その結果、地蔵を引き取るにあたって、相応のお金を出すということで交渉が成立し、足抜き地蔵は島原に戻されることになったのです。しかし、その夜のことです…。

妙蓮寺前町の人たちが集まって話をしていると、突然、そのうちの1人に足抜き地蔵が乗り移り、「私は島原にはまだ帰ることは出来ない。私はたくさんの女郎を苦しめた悪い地蔵だ。その悪行を悔いて、修行のためにこの地に来たのだ。まだまだ修行が足りておらんので、島原へは帰さないでくれ」と告げたのです。町の人たちはそのお告げに従い、足抜け地蔵を島原に引き渡すことを取りやめ、灰屋図子の守り神として祀られることになったと言われています。

いかにも伝説といったお話ですが、その根底には“強者に対する弱者の抵抗”があります。これも庶民が生んだ伝説のひとつと言えるでしょう。

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足抜き地蔵:京都市上京区大宮寺之内東入ル妙蓮寺前町南下ル東

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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