豊臣秀吉の妻、ねね(北政所:きたのまんどころ)は77歳でその生涯を閉じますが、そのねねが晩年の19年間を過ごしたお寺が、東山にある「圓徳院(えんとくいん)」です。今回は、ねね終焉の地、「圓徳院」の話をしましょう。
ねねが愛した庭
秀吉が亡くなった後、ねねは1605(慶長11)年に秀吉を弔うために高台寺を建立しますが、その前年に、秀吉と過ごした思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を高台寺のすぐ西側に移築し、その御殿にねねが移り住んだことが、圓徳院の起こりとされています。
ねねの死後、化粧御殿は高台寺に移されてしまいますが、ねねがこよなく愛した前庭は圓徳院に残されました。その庭園が圓徳院の一番の見どころである「北庭」です。
見る人の心を魅了する枯山水の庭園
北庭は安土・桃山から江戸時代にかけて活躍した庭師の賢庭(けんてい)により設計され、後に小堀遠州が手を加えた池泉回遊式の枯山水の庭園です。
庭は見るものの好みがあって、どれが一番とは一概には言えませんが、京都にある豪壮な桃山時代の庭園の中でも、圓徳院の北庭の素晴らしさは群を抜いているように思えます。多数の石と池泉に架かる数個の橋とのバランス、そして、それぞれの石の形の見事さに魅了させられます。
豪壮さで言えば、醍醐寺や西本願寺の庭園になるかと思いますが、これらの庭園の石はあまりにも立派すぎて、些か抵抗感がありますが、北庭の石は圧迫感がなく、優雅です。ねねはこの北庭を眺めながら、愛する秀吉と生きた日々を追想していたのでしょう。
ねねが秀吉を選んだ理由
ねねと秀吉は歴史上、有名な夫婦ですが、ねねと秀吉は恋愛結婚だったことはご存知でしょうか。意外にも思われるかもしれませんが、ふたりが生きた桃山時代は、恋愛結婚は決して珍しいことではなかったのです。
桃山時代の女性は、生き方や結婚に対して“自己責任”が徹底していて、自分の意思で選んだ男性と結婚するのだから、それから先、何があろうと自分でその責任を取るという潔さが桃山時代の女性にはありました。ねねも桃山時代を代表する、意志の強い女性のひとりだったのです。
ねねは聡明で美しく、男性からはとてもモテたそうです。多くの男性がねねに求愛しますが、ねねは誰も受け入れようとはしません。そんなねねが生涯の伴侶として選んだ男性が、秀吉でした。秀吉は百姓の出で、その時はまだ信長の足軽を務めていました。武家の娘であるねねとはあまりにも身分の違いがあり過ぎて、ねねの両親はもちろん、周りの人はみんな、秀吉との結婚には大反対でした。
秀吉は当然、貧乏で、しかも、信長から「さる」という愛称で呼ばれていたほどですから、到底、イケメンとはほど遠く、恐らく不細工だったはずですが、美人で引く手あまただったねねはどうして、そんな秀吉を選んだのでしょうか。そのあたりのことは、ねね本人に聞かないとわからないことですが、想像するに、ねねは身分やルックスではなく、秀吉の心の温かさと一国を率いるリーダーになる資質に惹かれたのではないでしょうか。
秀吉がねねに送った一通の手紙
秀吉は類まれにない優しい男性だったと言われています。それを物語る手紙が残っています。
その手紙は、小田原の戦いの最中、戦地にいる秀吉がねねに宛てた手紙で、戦に向かう前に、体調が悪そうにしていたねねを思い、「この戦よりも何よりも、ねねの体のことが一番、気掛かりだ。1日でも早く帰るから、無理をせず、早く良くなるように体に気をつけて欲しい…」といった内容が綴られていたそうです。
今ならメールやLINEで気軽に気持ちを伝えることができますが、秀吉は戦国の世で、しかも戦の最中にわざわざ手紙を書くという気遣いができた男性だったのです。そういった秀吉の優しさに、ねねは惚れたのかもしれませんね。
年間に約100万人もの人が訪れる圓徳院は、秋の頃には境内のもみじが美しく色づきます。ねねのゆかりの庭を眺めながら、心静かに時を過ごしてみませんか?
圓徳院:京都市東山区高台寺下河原町530 TEL : 075-525-0101
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