京都の風景をイメージするとしたら、何を思い浮かべるでしょうか? 清水寺、鴨川、祇園の町並み、渡月橋・・・。人それぞれ、思い浮かんでくる京都の風景があると思いますが、五重塔を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
京都の街に、凜とそびえ立つ五重塔。その見事なほどにバランスの取れた、その姿は見るものを魅了します。そして、京都の五重塔には様々な物語があります。今回は京都の街のシンボルとも言える建造物、「五重塔」の話をしましょう。
京都には4つの五重塔があります
京都市に現存する五重塔は全部で4つあります。それは、伏見区の「醍醐寺(だいごじ)」、右京区の「仁和寺(にんなじ)」、南区の「東寺(とうじ)」、東山区の「法観寺(ほうかんじ)」です。それぞれの五重塔にはどんな物語があるのでしょう…。
『造形美の物語』
京都の五重塔 その①:醍醐寺 五重塔(高さ約38メートル)
京都市伏見区にある「醍醐寺」。世界文化遺産にも登録されている醍醐寺は41点の国宝と39,363点にも及ぶ膨大な数の重要文化財を所蔵しいることから、“文化財の宝庫”とも呼ばれているお寺です。
広大な境内には、薬師堂、金堂、五重塔、清瀧宮(せいりゅうぐう)拝殿、三宝院表書院(さんぽういんおもてしょいん)などの国宝の伽藍が建ち並んでいますが、その中でも圧倒的な存在感を誇っているのが“五重塔”です。
この五重塔は、朱雀天皇が父である醍醐天皇の冥福を祈って、951(天歴5)年に建てられ、いくつもの戦禍の中、焼けることなく、創建当時の姿を今に残しています。
京都府内で最古の木造建造物とされる五重塔は、奈良県の法隆寺と山口県の瑠璃光寺とともに「日本三大名塔」に数えられていますが、その塔のカタチの美しさにおいては、醍醐寺の五重塔が日本一ではないでしょうか。塔の3分の1の高さを占める相輪(そうりん:塔の上にある金属部分)の大胆さ、そして、細部に至るまで徹底的にこだわった木組みの精緻さなど、その相反する要素が織りなす絶妙なバランスは到底、人が作り上げた物とは思えない、まさに奇跡と言っても過言ではないほどの造形美が、この五重塔にはあります。
フランスの哲学者、サルトルが塔の前に立ったとき、言葉を失い、ただ呆然と塔を見つめていたと言われています。きっと、サルトルもこの五重塔の美しさを感じ取ったのでしょうね。
醍醐寺:京都市伏見区醍醐東大路町22 TEL : 075-571-0002
『先人の知恵の物語』
京都の五重塔 その②:仁和寺 五重塔(高さ約36メートル)
映画やテレビの時代劇に五重塔がよく登場しますが、その五重塔の大半は、世界遺産にも登録されている仁和寺の五重塔なのです。どうしてでしょうか。それは、この五重塔の形状に理由があったのです。
仁和寺の五重塔は下層から上層に至る、各層の屋根の大きさがほぼ同じであることが特徴ですが、これは江戸期に造られた五重塔の代表的な建築様式とされています。そのために映像に江戸期の時代観を醸し出すには、丁度、適しているからです。法隆寺の五重塔のような、古い時代に造られた五重塔は、上層に行くほど屋根のサイズが小さくなるのが特徴ですが、この様式の五重塔が登場すると、時代劇が繰り広げられる江戸時代とは違った時代観が見えてしまい、江戸時代の雰囲気が出ないのです。
仁和寺の創建は886(仁和2)年で、鎌倉初期までは興隆が続きました。その後、火災と復興を繰り返し、1467年から10年間に及ぶ「応仁の乱」でついに全山は焼失してしまいます。それから200年近く経って、三代将軍・徳川家光によって仁和寺は再興され、1644(寛永21)年に再建されたのが、現在の五重塔です。ということは、今の五重塔も370年もの長い歴史があるわけですが、その間、一度も地震で倒れたことはないそうです。
普通、五重塔の中心には「心柱(しんばしら)」と呼ばれる柱があり、それには塔を支える、言わば、大黒柱のような役割があるのですが、この仁和寺の五重塔の心柱は、根元が地面に埋められておらず、石の上に乗っているだけで、まったく固定されておらず、浮いているような状態なのです。
心柱と繋がっているのは屋根の上にある相輪のみで、逆に五層目の屋根で心柱は支えられていたのです。つまり、この心柱は塔を支えるという役割を果たしていないわけです。それにも関わらず、仁和寺の五重塔が地震に耐えれたのは、どうしてなんでしょう…。そのヒミツは五重塔の揺れ方にあったのです。
五重塔の構造は5層の屋根がおもりのようになっていて、その5つのおもりが振り子のように互い違いに揺れるために、バランスがうまくとれて、倒れにくいのです。また、この構造は揺れの収まりが早いという特徴もあり、ますます、倒れないようになっているわけです。そして、この知恵は世界一高い塔である634メートルの「東京スカイツリー」にも生かされているのです。恐るべし、先人の知恵!ですね。
仁和寺:京都市右京区御室大内33 TEL : 075-461-1155
『ランドマークの物語』
京都の五重塔 その③:東寺 五重塔(高さ55メートル)
数多くの名所がある京都には、ランドマークと形容される建造物がいろいろとありますが、その中でも京都のシンボルとして古くから親しまれてきたのが、世界文化遺産に登録されている東寺(教王護国寺)の五重塔です。名神高速道路の京都南インターを降りて、北に暫く車を走らせると、いきなり、東寺の五重塔が目に飛び込んできます。その瞬間に気分は京都に染まります。それほど、東寺の五重塔は京都らしい建造物なのです。
東寺は平安京造営から間もない、796(延歴15)年に、桓武天皇によって創建されたお寺です。東寺とともに羅城門の西に西寺(さいじ)も造られましたが、1233(天福1)年に焼失した後、再建されることはありませんでした。一方、東寺は国家鎮護の寺院として、そして、真言密教の根本道場として発展し、後に弘法大師信仰の一大拠点となるのです。
東寺の五重塔の魅力は、何と言ってもその高さにあります。高さ約55メートルもある五重塔は、木造の仏塔としては日本一。間近で仰ぎ見ると、その高さに圧倒されます。これほどまでに高い塔を造ったのは、朝廷が建てた寺として、その権威を示すためと考えられますが、それだけではなく、仏塔そのものの意味するところにも、その理由があるのです。
古代インドでは仏舎利(仏陀の遺骨)を納めたお墓を“ストゥーパ”と言いますが、それが漢字表記されたのが「卒塔婆」です。そして、更に省略されて「塔」となりました。また、形状に関しては、ストゥーパと古代中国の楼閣が融合したものが原型で、そこに日本的なアレンジが加えられて、五重塔が生まれたとされています。そういうことから、東寺の五重塔には釈迦のお墓という意味があり、出来るだけ多くの民衆が遠くからでも拝めるようにということで、可能な限り、塔を高層化させたため、他の五重塔より高い五重塔になったのです。東寺の五重塔は1200年も昔から、京都のランドマークだったわけです。
東寺(教王護国寺):京都市南区九条町1 TEL : 075-662-0250
『不思議な物語』
京都の五重塔 その④:法観寺 五重塔(高さ46メートル)
“八坂の塔”の愛称で親しまれている法観寺の五重塔は、東山の清水寺にほど近い、民家が密集する地域にそびえ立っています。八坂通から見上げる五重塔の姿は、京都を紹介するテレビ番組などによく出てきますので、ご存知の方も多いでしょう。
この五重塔がある法観寺は聖徳太子によって創建されたと言い伝えられていますが、最近になって、平安遷都された794(延歴13)年よりも前に、渡来系の氏族集団である“八坂造(やさかのみやつこ)”の氏寺として創建されたのではないかと言われています。古くは八坂寺と呼ばれていたという記録があるところからすると、聖徳太子説より、八坂造説の方が有力かもしれませんね。いづれにしても、かなり歴史のあるお寺であることは確かなようです。
ところで、この五重塔(八坂の塔)には、不思議な逸話が残されています。
平安時代の頃、八坂の塔の隣にある庚申堂(こうしんどう)に浄蔵(じょうぞう)という僧侶が住んでいました。浄蔵は単なる僧侶ではなく、同時代に生きた陰陽師の安倍晴明に勝るとも劣らない、不思議な霊力を発揮した僧侶でした。
ある日のこと、八坂の塔が西に傾きだし、人々は恐ろしいことが起きる前触れだと大騒ぎになりました。それを知った時の天皇は浄蔵を呼びつけ、八坂の塔を元通りにするように命じたのでした。この時、浄蔵は64歳という老齢の身で、法力をしばらく使っていませんでした。そこで、まず手始めとして、鴨川の水を法力で逆流させることが出来るかどうかを試してみたところ、鴨川の水は見事に逆流しました。自分の法力が衰えていないことがわかった浄蔵は八坂の塔に向かって祈り始めました。すると、天空は見る見るうちに暗雲に覆われ、一陣の突風が吹いたかと思うと、八坂の塔はゆらゆらと揺れだし、次第に傾きが戻り、ついには、元の状態に収まったのでした。何とも不思議な話ですね。
法観寺:京都市東山区清水八坂上町388 TEL : 075-551-2417
いにしえの時代より、人々の信仰と心の拠り所とされた五重塔には、このように秘められた数々の物語があったのです。
(写真・画像等の無断使用は禁じます。)