本阿弥光悦 ~日本文化に影響を与えたマルチアーティスト

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茶の湯を極めた人は、一流の趣味人であることが多いようですが、芸術家、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)もそのひとりです。光悦は江戸時代初期の京都で、茶人にして、書の達人、さらに陶芸家としてもその名を馳せました。そのため、町衆の身分でありながら、徳川家康や前田家、烏丸家など一流の武家や公家と交流があった、いわゆる上流町人だったのです。今回は日本文化に多大な影響を与えた「本阿弥光悦」の話をしましょう。

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卓越した美意識の持ち主

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本阿弥光悦は、1558(永禄1)年、室町時代から続く、刀の研ぎ(磨研)、ぬぐい(浄拭)、目利き(鑑定)の名家である本阿弥家に生まれました。

日本刀は刀身が美しいことはもとより、鞘(さや)や柄(つか)、鍔(つば)などにも繊細な細工が施され、それらには木工や金工、蒔絵(まきえ)、染織、螺鈿(らでん)など、様々な工芸技術が施されていました。そのため、鑑定には美術に対するあらゆる分野に高い見識眼を持つことが必要とされていました。そんな家に光悦は生まれたわけですから、小さい頃から優れた工芸品に触れて育ち、自ずと卓越した美意識が光悦の中で育っていったのです。

「日本のダ・ヴィンチ」、光悦

その後、事情があって父が分家となり、家業から離れた光悦は、今までに培った工芸の知識を元に、自分が好きな和歌や書の教養を反映した芸術作品の創造への道を歩き始めたのです。

光悦は、茶の湯や書、陶芸、漆芸など、それぞれの道で一流の創作を行い、いずれの分野でも“光悦流”と呼ばれる、斬新且つ華麗な作品の数々を世に残しました。このようなことから光悦は「日本のダ・ヴィンチ」とも言われています。

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2人の天才の出会い

40代に入った頃、光悦は若い駆け出しの絵師に出会います。その絵師の名は“俵屋宗達(たわらやそうたつ)”。

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その頃、宗達は才能があるにも関わらず、世に出る機会に恵まれない、鳴かず飛ばずのしがない絵師でしたが、その才能を見込んだ光悦は、その時、携わっていた厳島神社の寺宝『平家納経』の修復作業に宗達を参加させたのです。そのことによって、それまで扇や色紙などの小物にしか絵を描くことがなかった宗達は、この経験を生かして、屏風や襖絵などの大きな絵を描くことに挑戦し、後に有名な『風神雷神図屏風』や『蓮池水禽図』などの傑作を生み出し、その才能を開花させることになるのです。

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50代になると光悦は、俵屋宗達との合作『鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたえさんじゅうろっかせんわかかん)』の制作を行いました。将軍徳川家光に「天下の重宝」と言わしめたほどの書の達人だった光悦は、宗達が描いた絵に、三十六歌仙の和歌を書くという斬新な提案をしました。その提案を受けた宗達は15メートルもの巻紙にわたって飛翔する無数の鶴を描くと、光悦はそこに極限まで装飾化した文字で和歌を書いたのです。それは、従来の常識を完全に打ち破り、文字を超えて絵画になった、後に“光悦流”と呼ばれる新しい「書」の誕生となったのです。

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光悦、人生最大の転機とは!?

1615(元和元)年、57歳になった光悦の人生に転機が訪れます。この頃になると光悦は、貴族や上流町人の間に多大な影響力を持つようになっていましたが、それを面白くないとした家康は、光悦を京都の中心部から遠ざけようと画策し、京都の北西部にある鷹峯(たかがみね)の土地9万坪を光悦に与えたのです。ところが、これは光悦にとっては好都合なことで、権力や俗世から離れて、好きな芸術に没頭できる場所が手に入ったと喜び、その鷹峯の広大な敷地に一大芸術村を築き上げたのです。

光悦が理想とした芸術村

鷹峯の芸術村には、光悦の呼びかけで、絵師や蒔絵師、陶工、金工などの工芸家や創作活動を支える紙屋、筆屋、織物屋などが集結しました。また、風流をたしなむ豪族なども芸術村に住み、結局、56もの家屋敷が軒を連ねていたと言われています。光悦はこの芸術村の経営と指導にあたりながら、亡くなるまでの約20年間、創作三昧の日々を過ごしたのです。

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光悦は平安朝から続く伝統文化を深く敬愛し、それをベースに光悦独自の創意工夫を加え、まったく新しい作品を作り出しました。それは非実用的なアート作品だけではなく、屏風や掛け軸、団扇や本の表紙など、生活における実用品まで多岐にわたって、創作をおこないました。光悦は美術品を単に鑑賞用とするのではなく、人々の暮らしに接する生活道具の一部と考えていたのです。そして、そこには常に軽妙な遊び心がありました。それはまた、多くの人を惹き付ける要因でもあったのです。光悦の親交は、武士や公家、僧侶など広範にわたり、あの宮本武蔵も吉岡一門との決闘前に、この芸術村に暫し滞在したそうですよ。

マルチアーティスト、本阿弥光悦

琳派(りんぱ)の創始者である本阿弥光悦。その精神は後に尾形光琳や乾山兄弟らに受け継がれていきます。書道家、陶芸家、画家といった様々な顔を持つ、マルチアーティストであった光悦が日本の文化に与えた影響は計り知れないものだったのです。

芸術村にあった光悦の屋敷は、彼の死後、「光悦寺(こうえつじ)」というお寺になりました。光悦寺には光悦が作った庭や7つの茶室、「光悦垣(こうえつがき)」と呼ばれる竹垣などが残されています。配置された木々や沿道の苔、石畳まで、何もかもが洗練されて美しく、心地いい…。光悦が作り上げたその空間には、静かな気品が漂っています。

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光悦寺:京都市北区鷹峯光悦町 TEL : 075-491-1399

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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