新熊野神社 ~熊野にこだわった後白河法皇

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閑寂な新熊野神社(いまくまのじんじゃ)の境内に天高くそびえ立つ1本の楠(くすのき)。後白河法皇が自ら植えたとされるこの楠は、その枝を空を覆い隠すように広げ、まるで怪物のようにも見えるその姿は見る者を圧倒します。今回は後白河法皇の命により、平清盛が創建した「新熊野神社」の話をしましょう。

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熊野の神を京に勧請した後白河法皇

平安時代、天皇家の間で紀伊半島の南部(現:和歌山県新宮市、及び田辺市)にある熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)の熊野三山を参拝する“熊野詣(くまのもうで)”が流行っていました。特に後白河法皇は、生涯34回も熊野詣を行うという熱の入れようだったようです。

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しかし、そんな法皇も都から熊野はさすがに遠いと思ったのか、熊野の神様を都に迎い入れることを考えついたのです。そして、法皇は平清盛に命じて熊野から土や木材を調達し、自身の御所であった「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」の鎮守社として造営されたのが、この新熊野神社の始まりです。

“新熊野”と書いた理由

新熊野神社の所在地は東山区の今熊野ですが、神社の名は“新熊野”と書いて、“いまくまの”と読みます。どうして“いま”に“今”ではなく“新”の字を当てたのでしょうか? これはもちろん意味があってのことで、それは紀州の熊野を古い“昔の熊野”とするのに対して、京都の熊野は新しい“今の熊野”だとして、「新」の字を当てて、“いま”と読ませたのです。

神仏が出現した大楠

後白河法皇は神社の創建のおり、紀州の熊野にあった楠をご神木として境内に移植したと伝えられています。その楠は神社の鳥居をくぐった左側にあります。高さ約20メートル、幹周り約6.5メートルの立派な楠は「影向(ようごう)の大楠(おおくすのき)」と名付けられ、京都市の天然記念物に指定されています。

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“影向”とは神仏の出現を意味し、そのことから、この大楠は「楠大権現(くすのきだいごんげん)」と呼ばれ、信仰の対象にもなっています。樹齢は900年以上だそうで、そうするとこの楠は平安時代から生き続けていることになるわけですが、その並みならぬ生命力から、“長寿”や“病魔退散”にご利益があると言われています。

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お腹の神様とされる所以

この大楠は、お腹の神様としても親しまれています。楠がお腹の神様だとされる理由は、民間信仰であるため、明確なものはないのですが、説としては後白河法皇はお腹が弱く、よく腹痛に悩まされていたそうなのですが、楠を植えてからは腹痛が起こらなくなったからだという説や、楠は防虫効果のある樟脳の原料であることから、お腹の悪い虫を退治すると考えられたという説があります。

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そして、お腹の神様ということで、安産にご利益があるとも言われています。鳥居の側に奇妙な形の物体が置かれていますが、これは「さすり木」と呼ばれ、大楠の一部を切り出して作られたものです。「さすり木」をさすって願を掛けるわけですが、その表面がツルツルになっているのは、それだけ安産を願う女性が多くいらっしゃる証拠ですね。

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足利3代将軍・義満が見初めた美少年

新熊野神社はその名の通り、熊野信仰が色濃い神社ですが、鹿苑寺(金閣)を建立し、北山文化を開花させたことでも知られる室町幕府3代将軍・足利義満もまた、熊野信仰に篤い人物だったと言われています。

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1374(応安7)年に新熊野神社を訪れた義満は、境内で舞う父子の姿に目を奪われました。その父子とは観阿清次(かんあ きよつぐ)とその息子の鬼夜叉(おにやしゃ:藤若丸)で、2人は大和猿楽のひとつ、「結崎座(ゆうざきざ)」の興業で、『今熊野勧進猿楽』と呼ばれる猿楽(平安時代に成立した日本の伝統芸能)を舞っていたのです。

義満は2人の舞いにいたく感動し、特にまだ10歳そこそこの鬼夜叉と呼ばれる美少年に釘付けになりました。義満はこの父子を同朋衆(どうぼうしゅう:将軍の近くで芸能・茶事・雑役を行う人たち)に迎い入れ、2人に観阿弥(かんあみ)、世阿弥(ぜあみ)と名乗らせたのです。

能楽発祥の地、新熊野神社

才能に秀でた世阿弥は、物まねや言葉芸が主だった猿楽に、白拍子の舞いや曲舞(くせまい)などの要素を取り入れ、その舞いは優美さに富んだものでした。この世阿弥の舞いが現代の能楽の礎となり、『今熊野勧進猿楽』を舞った新熊野神社は、“能楽発祥の地”となったのです。

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世阿弥はその後も足利家の庇護のもと、京都で華やかに舞い続けたそうですが、1408(応永15)年に義満が没すると、次の将軍・義教(よしのり)から圧力を受け、結局、佐渡へ流されてしまいました。

後白河法皇が熊野にこだわって創建された新熊野神社。そこで、熊野信仰に熱心だった足利義満が目を奪われたほどの世阿弥の舞いとは如何ほどのものだったのでしょうか…。見れるものなら、見てみたいものです。

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新熊野神社:京都市東山区今熊野椥ノ森町42 TEL : 075-561-4892

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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