地方から東京に向かうときに「上京」という言葉を使いますが、京都に向かうときには「上洛」という言葉が使われます。「次はいつ京都にお出でになりますか?」というのをちょっと洒落て、「次のご上洛はいつですか?」と言ったりします。何故、京都に向かうことを「上洛」と言うのでしょうか? 今回は京都に向かうときに「上洛」という言葉を使う、その理由をお話しましょう。
中国の都市をモデルにして造られた平安京
794(延暦13)年に都造りが始まった平安京は中国の都城制を参考にされたもので、南北5.2キロ、東西4.7キロの壮大な計画都市でした。平安京は南北に貫く幅約85メートルのメインストリート、朱雀大路を中心に、内裏から見て、東側が左京、西側が右京に分けられていました。
左京と右京の町並みも、唐に実在した都市をモデルにして行われたと言われています。当時、唐には首都の「長安」と副都の「洛陽」の2つの大都市がありましたが、左京は「洛陽」に、右京は「長安」に真似て造営されました。そして、803(延暦23)年に、菅原道真(すがわらのみちざね)の祖父にあたる、遣唐判官であった菅原清公(すがわらのきよきみ)の提唱により、左京を“洛陽城”、右京を“長安城”と名付けられたのです。
衰退する「右京」と繁栄する「左京」
平安京は前途洋々の船出をし、順調に栄えて行くものと思われていましたが、平安中期の頃になると、次第に右京が衰退し始め、平安京そのものの解体が始まったのです。
右京は左京に比べると、地形的に低地で、沼や湿地が多く、居住地としては適していませんでした。そのため、住宅や道路の開発の進みが遅く、徐々に荒廃し、農村化の方向へと進んでいったのです。ところが、左京、その中でも特に左京の北側は発展し続け、二条以北には、高官などの有力貴族たちの邸宅が建ち並ぶほどになっていました。
このように、洛陽城と名付けられた左京が、長安城と名付けられた右京よりも栄え、「洛陽」という呼び名が定着していったのです。そして、次第に「洛」という言葉が“中心”という意味を持つようになるのでした。
その後、「洛」を使った“洛都(らくと)”や“京洛(きょうらく)”という言葉もあったようですが、江戸時代になって、将軍が京都へ向かうことを“京へのぼる”と表現されるようになったことから、そのことを「上洛」、もしくは「入洛」と言われ、それが京都に向かうという意味の言葉として、現在も一般的に使われているのです。
平安京はその後、左京を中心に繁栄することになりますが、室町時代に起きた応仁の乱により、京都の町の大部分が焼かれ、荒廃してしまいます。京都が再び、賑わいを取り戻すのは、織田信長が上洛してからのことです。
「洛」から生まれた言葉
現在、京都の地域区分を表す言葉として、「洛中」と「洛外」がありますが、これは、豊臣秀吉が、京都の町の区画整理を行った際に、“土塁(どるい)”、つまり土手を町中に築き、その内側を「洛中」、外側を「洛外」と呼ばれていたことが、今も残っているのです。ただ、「洛中、洛外」という言葉は「洛中、洛外を歩く」というような言い方で書物や映像などのメディアでは使われることがあるようですが、実際に京都人が日常の生活の中で使うことはほとんどないようです。
また、洛中、洛外をさらに区分して、「洛北」(賀茂川以東の北区及び北山通以北から松ヶ崎道以東の大原・八瀬までの地域)、「洛東」(東山区及び左京区の一部で鴨川と東山連山に挟まれた地域)、「洛西」(嵯峨野・嵐山及び高雄・衣笠山・愛宕山辺りの山間部)、「洛南」(南区・伏見区・山科区などの南部一帯)という4つの呼び方もあります。
中国の2大都市に倣って作られたことから生まれた「洛」。その「洛」からは様々な言葉が派生し、京都らしさをイメージさせてくれます。この「洛」とは、言わば、“京都の代名詞”なのです。
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