京都怪異譚 その17『河原院跡 ~平安京の幽霊屋敷』

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光源氏のモデルになった人物

紫式部の長編小説『源氏物語』の主人公、光源氏。美男子として描かれている光源氏は、もちろん、架空の人物ですが、その光源氏にはモデルとなった人物がいました。その人物とは「源融(みなもとのとおる)」です。

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源融は822(弘仁13)年に、第52代・嵯峨天皇の皇子として生まれましたが、その身分を離れ、臣籍に下って源氏姓を受け、左大臣にまでなった人物です。皇位を継がず、わざわざ源氏に下ったということは、よほど政治に興味があったのでしょうね。

贅を尽くして造られた“河原院”

融は、“河原院塩竃第(かわらいんしおがまのだい)”、通称、“河原院(かわらのいん)”と呼ばれる邸宅に住んでいました。光源氏が住んだ豪邸・六条院のモデルになった河原院は、六条の鴨川の近く(現在の木屋町五条あたり)にあったとされ、その造りは壮麗なものとして、都の人たちの間では評判だったようです。敷地も広大で、東は鴨川から、西は柳馬場通まで、北は五条から、南は正面通までと、その総面積は6万3500平方メートルもあったと言いますから、それは東京ドームよりも広かったことになります。

また、庭には数々の趣向が凝らされていました。例えば、そのひとつですが、鴨川から川の水を引いて池を作っただけでは気が済まず、陸奥国の“塩竃の浦”の景色を再現することを思いついた融は、難波(大阪の難波ではなく、今の兵庫県尼崎)からわざわざ海水を毎月30石運ばせて、塩焼きを行い、その風情を楽しんだと言われています。また、魚や貝などの海の生き物もそこで飼っていたと言う話もあり、河原院はまさに贅を尽くした邸宅だったのです。それは、左大臣にまで登り詰めた融の権勢が、如何に絶大であったかを物語るものでした。

融は政界から引退した後も、多くの歌人や文人たちを河原院に招き、風雅な暮らしをして、74歳まで河原院や宇治の平等院で余生を過ごしたそうです。

宇多法皇に一喝された融の幽霊

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河原院は融の死後、子の昇(のぼる)が譲り受けましたが、昇は河原院を宇多法皇(宇多天皇)に寄進してしまいました。河原院に融の幽霊が出るようになったのは、ちょうどこの頃からだと言われています。

ある日の夜のこと、河原院の一間で眠っていた宇多法皇は、近づいてくる衣擦れの音に気づき、目を覚ましました。法皇はその音がする暗闇に目を凝らしていると、衣冠束帯を身に付けた融の幽霊が現れました。

法皇:「お前は誰だ?」 融の幽霊:「ここのあるじでございます」

法皇:「あるじ? まさか、お前は融の大臣か?」 融の幽霊:「さようでございます」

法皇:「死んだお前が何の用だ?」 融の幽霊:「ここは我が家で、以前よりずっと住んでおりますが、帝がお出ましになって恐れ多く、窮屈にしております。出ていってもらうわけにはいきませんか?」

法皇:「おかしなことを言うものだな。この屋敷は死んだお前の息子が私に献上してまいったものだ。私がここに住むのは道理だろう。私が無理矢理に奪い取ったならともかく、礼儀もわきまえず、何で死んでからも恨むのか!!」

法皇に一喝された源融の幽霊は、暗闇へ、すーっと消えて行ったのでした。

これは『今昔物語集』(平安時代末期の説話集)にある有名な逸話で、丹精込めて造り上げた河原院への執着さから、源融が幽霊になって現れた話ですが、幽霊が現れたというのに、法皇の冷静な対応ぶりには驚かされますね。

人妻を狙う融の幽霊

この他にも源融の幽霊が河原院に現れた話がいくつか残されています。

宇多法皇が河原院で京極御息所と夜を過ごしているところに、融の幽霊が現れ、「御息所が欲しい」と言いました。すると、御息所は突然、死んだようにぐったりとしてしまいました。融の幽霊はいつの間にか消えていて、法皇は慌てて僧侶を呼び、祈祷させると御息所は息を吹き返したのでした。【江談抄(ごうだんしょう):平安時代後期の説話集】

宇多法皇が河原院の庭で京極御息所と月を眺めていると、融の幽霊が現れ、御息所を河原院の中に引きずり込もうとしました。法皇は必死に御息所を掴み、引っ張り返すと、御息所は放されましたが、すでに御息所の息はありませんでした。【紫明抄(しめいしょう):鎌倉時代の源氏物語の注釈書】

旅をしていた夫婦が荒れ果てた河原院で一夜を過ごそうと、夫が馬をつないでいたところ、突然、建物の中から手が現れて、妻は建物の中に引きずり込まれてしまいました。夫は固く閉ざされた扉を壊し、やっとのことで建物の中に入ると、そこには血を吸い尽くされた無残な姿の妻が鴨居から吊されていました。【今昔物語集】

このように、融の幽霊は女性、特に人妻を襲う話が多いようですが、融は生前もやはり、女好きだったのでしょうね。高貴な身分で、地位があり、お金持ちで、プレイボーイ…。源融は、まさしく、光源氏のモデルに打ってつけの人物だったようです。

現在、河原院があった場所には、邸内にあった榎木(えのき)が大きく育って立っています。今はもう、京の幽霊屋敷の姿はどこにもありませんが、源融の霊は今も榎木の辺りに彷徨って、女性を狙っているかもしれません…。

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河原院跡:京都市下京区木屋町通五条下ル

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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