大仏といえば、奈良・東大寺の大仏か、鎌倉・高徳院の大仏を思い浮かべられることかと思いますが、京都にもかつては、東大寺の大仏よりも大きな大仏があったのです。その大仏は造っては壊れるを繰り返した不運な大仏でした。今回は京の幻の「大仏」の話をしましょう。
京の大仏は奈良・東大寺の大仏よりも大きかった!
豊臣秀吉は関白となった翌年の1586(天正14)年に、東山の麓に大黒尊天を祀る「方広寺」というお寺を建てました。それから、2年後の1588(天正16)年に、秀吉は東大寺の大仏よりも大きな大仏を造ることを計画し、方広寺の境内に大仏殿と大仏の造営を始めました。建立に携わった人数は延べ6万人を超え、8年もの歳月をかけて、1595(文禄4)年に秀吉、念願の大仏殿が完成したのでした。
その大仏殿の高さは約50メートルもあり、それは大阪城がすっぽりと入ってしまうほどの大きさだったというから驚きです。そして、その大仏殿の中に鎮座する大仏は全高約19メートルもあり、それは東大寺の大仏を超える巨大なものでした。その大仏は漆で塗られ上に金箔が貼られた、秀吉らしい贅沢な造りだったようです。
この大仏殿と大仏のことは、江戸時代に描かれた『洛中洛外図』やその他の文献に書かれており、また、2000年8月に行われ京都市埋蔵文化財研究所の発掘調査により、大仏殿の基礎や大仏の台座が発見され、その遺構の状態から、東大寺の大仏殿をしのぐ壮大な建物であったことが確認されました。
地震、火事、雷…。不運に見舞われ続けられた京の大仏
このように偉容を誇った大仏ですが、この大仏はその後、不運に見舞われ続けることになるのです。
まずは1596(慶長1)年閏7月23日に起きた“畿内大地震”により、大仏が倒壊してしまいました。その時、秀吉は「うぬは、京の町を守るを忘れ、真っ先に倒れるとは、慌て者が!」と、大仏に矢を放ったそうです。よほど、腹立たしかったのでしょうね。
それから2年経った8月に、秀吉はこの世を去り、その後、残された淀君と秀頼親子によって、大仏は再建されますが、その再建途中に何者かによって放火され、大仏は焼失してしまいます。
そして、3度目の正直ということで、三度、再建された大仏は1614(慶長19)年11月に無事、完成しました。しかし、それから半世紀ほど経った1662(寛文2)年の3月に再び地震により、大仏は大破してしまいました。
普通はここで諦めるところですが、執念の如く4度目の再建が行われて、完成するものの、1798(寛政10)年に今度は落雷に遭って、またもや焼失してしまうのでした。
その後、寄進によって半身の大仏が造られ、安置されましたが、1973(昭和48)年に火事が起きて、ついに大仏は京都からその姿を消してしまったのです。
これほどまでに、造ってはことごとく壊されてしまう大仏には何か因縁めいたものでもあったのでしょうか。それにしても、ここまで不運が続くとは…、ただ不運としか言いようがないですね…。
豊臣家を滅亡に追い込んだ巨大な梵鐘
このようにして、日本一の大仏を今は見ることはできませんが、方広寺には豊臣家ゆかりの梵鐘が残されています。高さ4.2メートル、外形2.8メートル、重さ82.7トンの巨大な鐘で、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘のひとつとされています。
この鐘は3度目の大仏再興時に造られたもので、当時の姿のまま、今も見ることができますが、その梵鐘の胴回りには『国家安康(こっかあんこう)』と『君臣豊楽(くんしんほうらく)』という銘文がありますが、この銘文が豊臣家を滅亡に追い込んだ原因だと言われています。
この銘文を知った徳川家康は、自分の名前、“家康”が分断されていることから、“豊臣”のみの繁栄を願っているのではないかと勘ぐり、「この文に呪詛の言葉あり」と言って、大いに怒ったそうです。家康はこれをネタにして「大坂冬の陣」を仕掛け、1615(慶長20)年5月の「大坂夏の陣」により、豊臣家は滅びてしまうのです。家康にとって、梵鐘の銘文は豊臣家を滅ぼすための良い口実だったのかもしれませんね。
最後に、余談ですが、もし、方広寺に今も大仏があったとすれば、それはきっと世界文化遺産に登録されていたことでしょうね。
方広寺:京都市東山区正面通大和大路東入ル茶屋町527-2 TEL : 075-561-1720
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コメント
読売TVで、石原さんの楽しい案内で、その存在を初めて知りました。
京都に大仏があったと初めて知り、奈良に住む者として、ぜひその跡を
尋ねてみたいと思いました。 石原さんのご案内は興味深かったです
古川様
コメント、ありがとうございます。
京都に大仏があったことを知る人は意外と少ないようです。
京都に大仏があったことを示すものが今でも残っていますので、
是非、大仏関連の史跡をお訪ね下さい。