シリーズ『一風変わった京の地名』その13

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京都には難読と言われる地名が数多くあり、難読であるが故に、その由来もまた興味深いものであったりするわけですが、難読ではない、素直に読める地名であっても、思いもしない意外な由来や事実が隠されていることもあります。さて、今回の一風変わった地名は?

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東京遷都がなければ、この通りは存在しなかった!?

『新京極通』

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京都市中京区の三条通から四条通にかけて広がる、京都で最も賑やかな繁華街、新京極。そのエリアの中ほどに、南北に約500メートルほど続くアーケードのある通りが「新京極通(しんきょうごくどおり)」です。

「新京極」という地名は、その響きから如何にも繁華街に相応しく、新しさを感じますが、実はその名は平安時代にあった通り名に由来しているのです。

新京極通が造られたのは、古都・京都の通りの中では新しく、1872(明治5)年のことです。

この新京極通のすぐ西側に、平行して走る「寺町通(てらまちどおり)」があります。この通りは豊臣秀吉が1590(天正18)年に京の都の大改造を行った折りに、通りの東側の地域に多くの寺院を集められたことから造られた通りで、その周辺はお寺の縁日になると出店や見世物などの多くの催しで賑わっていました。

ところが、明治が始まると都は東京に遷され、京都の街は次第に衰退し始めたました。そのことに危機感を持った、当時の京都府知事・槇村 正直(まきむら まさなお)は、市民の士気を上げるために寺院が建ち並ぶ地域を整理し、それに併せて寺町通の東に新しい通りを造ったのです。

平安時代、寺町通は平安京の最も東に位置していたことから“京の果て”とされ、それを京の先端、つまり“京の極み”ということで「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」と呼ばれていました。その東側に造られた新たな通りということなので、「新京極通」と名付けられたのです。

槇村知事の政策は見事に的中し、1877(明治10)年頃には浄瑠璃や寄席などの小屋や飲食店が建ち並び、その後、大阪の千日前、東京の浅草に並ぶほどの盛り場として発展しました。

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今も新京極通は若い人や観光客で賑わっていますが、通りに沿って、胎内に五臓六腑のある阿弥陀如来像が伝わる誓願寺(せいがんじ)や、逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀如来像のある安養寺(あんようじ)、和泉式部ゆかりの誠心院(せいしんいん)などのお寺があり、七不思議(詳しくは「京の七不思議 その3 ~新京極の七不思議」をご覧下さい。)も伝わる、歴史的にも魅力ある通りなのです。

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もし、東京遷都がなかったならば、新京極通のように街を活気づける場所は京都には生まれていなかったかもしれませんね。

新京極通:京都市中京区中之町

伝説と大事件に登場する峠の道

『老ノ坂』

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「老ノ坂(おいのさか)」は京都市と京都市の北西に隣接する亀岡市の境界に位置する坂道で、一般的には「老ノ坂峠(おいのさかとうげ)」と呼ばれています。地名だけからすると、年老いた人が歩いた坂道?とちょっと妙に思えたりしますが、実はこの地名はこの近くにある「大江山(おおえやま)」に由来しているようなのです。

「老ノ坂」はもともとは「大江ノ坂」と呼ばれていて、その“おおえのさか”がいつしか“おいのさか”になり、その呼び方に漢字を当てて「老ノ坂」となったのだそうです。趣のある地名だけに、その由来には些か期待外れではあるのですが、この老ノ坂はあるひとつの伝説と日本の歴史に大きな影響を与えた大事件に登場する峠の道なのです。

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まずはこの地に残る伝説について。それは源頼光(みなもとのよりみつ)による大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治にまつわる伝説です。

酒呑童子とは山城国(やましろのくに:現・京都府中央部)と丹波国(たんばのくに:現・兵庫県東部)の国境にある大江山に棲んでいたと伝わる鬼のボスで、日本の数ある鬼伝説の中でも最も有名で、且つ、最強の鬼と言われています。

酒呑童子は大江山を拠点にして、子分の鬼をたくさん従えて、京の都に出向き、貴族の姫君を誘拐したり、民を喰うなどの悪行を繰り返していました。それを見かねた帝は摂津源氏の源頼光と嵯峨源氏の渡辺綱(わたなべのつな)を筆頭とする討伐隊(頼光四天王)を結成し、酒を飲ませて動けなくなった酒呑童子の首をはね、成敗しました。

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頼光たちは討ち取った首を京の帝のもとに持ち帰ろうとしましたが、その途中、老ノ坂の道端に立っているお地蔵さんに「天子がおられる都に、そのような不浄のものを持ち込むではない!」と戒められ、その途端、酒呑童子の首は動かそうにも、どうしても動かなくなり、仕方なく頼光らは老ノ坂に首を埋葬することにしたのです。

酒呑童子は死に際に、それまでの罪を悔いて、死んだ後は喉から頭部にかけて病気を持つ人を助けると約束したため、大明神として祀られました。それが今もある老ノ坂峠にある首塚大明神で、言い伝え通り、首から上の病気にご利益があるとされ、多くの人が今もお参りに訪れています。

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ところで、この酒呑童子の伝説は丹後地方の大江町では少し違った話で残されています。源頼光に首をはねられるところまでは同じなのですが、その後、はねられた酒呑童子の首は京の都の方向に向かって飛んで行き、落ちたところが老ノ坂だったので、頼光はそこに塚を築いて弔い、それが首塚大明神の始まりだと伝わっています。

首が飛んで行き、落ちた場所に首塚が築かれたという話は、無念ながらに死んだ蘇我入鹿や平将門の伝承にも見られますが、酒呑童子の場合もどちらかと言うと、より鬼の凄みが感じさせるという点で首が飛んで行ったという話の方が相応しいような気がしますね。

さて、次に老ノ坂が登場する歴史上の大事件について。その大事件とは、1852(天正10)年に明智光秀が織田信長を京都の本能寺に滅ぼした、かの有名な「本能寺の変」のことです。

明智光秀は主君である織田信長から毛利攻めを行っている豊臣秀吉に加勢するため備中に向かうよう命じられます。ところが、光秀は居城である丹波亀山城に戻り、備中に向かわず、13,000もの軍勢を率いて京に攻め入ったのです。これが、日本の歴史を大きく変えることになる大事件「本能寺の変」の始まりです。そして、この時、光秀軍が通ったとされる峠が、この老ノ坂なのです。

老ノ坂を通り過ぎる時、馬上の光秀は何を思ったことでしょう。それは、もちろん光秀本人だけが知ることですが、もはや引き返すことができないと思ったことだけは確かなことでしょう。老ノ坂は山城国と丹波国の境にあったわけですが、光秀にとっては自分の運命を、そして、日本の行く末の明暗を分ける境でもあったのです。

老ノ坂:京都市西京区大江沓掛町(くつかけちょう)

匂う天神さん!?

『匂天神町』

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この地名は「においてんじんちょう」と読みます。地名にはいろいろありますが、“匂い”が付く地名というのは日本でもこの匂天神町だけではないでしょうか。(大正の頃までは、茨城県の土浦に匂町という町名がありましたが…) “香”なら良いものの、“匂”となるとクサいというイメージがして、顔をしかめたくなりますよね。ところが、この地名の由来は“匂い”とはまったく関係がなかったのです。

実はこの匂天神町という地名は、この地に古くからある「匂天神社(においてんじんしゃ)」という神社に由来しているのです。天神さんと言えば、ご存知の通り、学問の神様で知られる菅原道真公のことで、匂天神社にはその道真公が祀られています。ただ、この神社の名前の由来や創建など詳しいことはほとんど不明で、今は、京都銀行本店東館ビルの鉄格子に覆われた一角に、ひっそりと小さな祠だけが残されています。

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もともとこの地は南北に伸びた小さな小路で、北側を「竹之辻子(たけのずし)」、南側を「随音辻子(ずいおんずし)」と呼んでいましたが、後に竹之辻子町と随音辻子町になり、1869(明治2)年にこの2つの街が合併し、その際に町名を「匂天神町」としたそうです。

祠の奥にある駒札には、祇園御旅所大政所(ぎおんおたびしょおおまんどころ:江戸時代、祇園祭で神輿が置かれていた場所)の敷地に勧請され、「洛陽天満宮二十五社」のひとつに数えられたとあります。それからすると、名前が不思議な「匂天神社」はそれなりに由緒ある天神さんのようですね。

天神さんのお参りには、京都から九州の太宰府までの間にある道真公にゆかりの深い25社を選んで順番に参拝する「管公聖蹟二十五拝(かんこうせいせきにじゅうごはい)という風習がありますが、その京都版が「洛陽天満宮二十五社」です。その時々の時代によって巡る神社や順番が変わるようですが、例えば、道真公没後950年にあたる1852(嘉永5)年の25社は次のように決められていました。

1. 管大臣神社 2. 北管大臣神社 3. 筑紫天満宮 4. 一夜天神 5. 神泉苑天神 6. 火除天満宮 7. 菅原院天満宮神社 8.安楽寺天満宮 9. 北野天満宮 10. 水火天満宮 11. 神御霊天満宮 12. 梶井天神 13. 管家天神 14. 雪天神 15, 梅宿菴天神 16. 天拝天神 17. 梅丸天神 18. 綱敷天神 19. 若宮天神 20. 紅梅天神 21. 綾子天神 22. 西念寺天神 23. 法然寺天神 24. 大雲院天神 25. 錦天満宮

この時の「洛陽天満宮二十五社」に匂天神社は入っていませんが、明治時代には洛陽天満宮二十五社のひとつにしっかりと選ばれています。一般的にあまり知られていない天神さんもあるので、機会があれば25の天神さんを巡ってみるのも、面白いかもしれませんね

匂天神町:京都市下京区匂天神町

今回は『新京極通(しんきょうごくどおり)』、『老ノ坂(おいのさか)』、『匂天神町(においてんじんちょう)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。

では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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