平安京以来、1200年の歴史を持つ京都。その京都の地名の由来には、長き歴史に培われた背景があります。その地名の語源や変遷を知れば知るほど、京都への興味は増すばかり…。さて、今回、ご紹介する一風変わった地名は?
華やかな生活文化を育んだ町
『壬生梛ノ宮町』
この町名は「みぶなぎのみやちょう」と読みます。この町内には大衆信仰を集めた「壬生寺」があり、そして“梛ノ宮”、つまり「梛神社(なぎじんじゃ)」の門前町であることがこの地名の由来になっています。
まずは梛神社。この神社は観光ガイドに載ることもなく、地元以外ではあまり知られていませんが、実は日本三大祭のひとつ、祇園祭の発祥に関わっている神社なのです。
876(貞観18)年、都で疫病が大流行した時、これを牛頭天王(スサノオノミコト)の祟りだとして、数万本もの梛の木があったこの地に牛頭天王を祀り、疫病退散の神事を行いました。その時に神輿を置いた場所が、この梛神社の始まりとされています。
その後、牛頭天王の御霊は八坂神社に遷されましたが、その時に傘をかざし、棒を振り、笛・太鼓を奏でたことが、祇園祭傘鉾の起源となったと言われています。このようなことから、梛神社は別名「元祇園(もとぎおん)」とも呼ばれています。日本を代表する祭、祇園祭の原型は、観光客が訪れることもほとんどない神社にあったとは意外なことです。
そして、壬生寺。“壬生寺”と言えば、重要無形民俗文化財に指定されている無言劇の「壬生狂言」が有名ですが、「新選組」にゆかりのあるお寺としても知られています。
壬生寺の正門北には、新選組が屯所(隊士達が日頃集まっていた所)として使っていた八木邸と前川邸があり(今も当時のままの姿で保存されている)、屯所が西本願寺に移転した後も、隊士達はこの壬生寺で兵法訓練を行っていました。そのようなことから新選組隊士は「壬生浪士」とも呼ばれていました。
ところで、壬生寺では毎年2月2日から4日にかけて、節分の行事「厄除節分会」が行われますが、この節分の夜に京都の花街には「お化け」が出るのはご存知ですか? この「お化け」とは、“恨めしや~”とおどろおどろしく出てくるお化けではなく、芸妓さんや舞妓さんがグループになって、“水戸黄門”や“お染・久松”、“松の廊下”などの登場人物の仮装(仮装=お化け)をし、『こんばんはぁ、お化けどすぅ』といってお座敷を巡るという、羽目を外した楽しい行事なのです。
実はこの「お化け」は、もともとは庶民の間で行われていた遊びで、お婆さんが派手な着物を着て、若い娘のような姿をしたり、若い娘さんが妖艶な人妻の姿をして、節分の夜に壬生寺の地蔵尊をお参りしたのが始まりだと言われています。
祇園祭の原点であったり、お化けの原点であったり…。「壬生梛ノ宮町」は京都の華やかな生活文化を育んだ町なのです。
壬生梛ノ宮町:京都市中京区壬生梛ノ宮町
語源は織物を織るために使う道具だった!?
『滕屋町』
京都の地名には、難読を通り越して、まったく読めない、お手上げな地名が数多くありますが、この「滕屋町」もそのひとつです。これは「ちぎりやちょう」と読みます。
“滕”は「ちきり」と読むのですが、これは織物を織る時に使われる道具の名称です。織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を組み合わせて作られますが、滕はその工程で使われる、経糸が巻かれる経巻き(たてまき)具のことなのです。この道具は字の「エ」のような形をしていて、経糸と緯糸を互いに結び合うということから縁起の良いものということから、滕を2つ合わせて図案化されて「滕紋(ちぎりもん)」という家紋にもなっています。
この「滕屋町」はその名の由来の通り、繊維関係の商家が多く建ち並んでいた町だったようですが、今は関連するお店や会社は少なくなっています。
また滕屋町の西には、京都の中心といわれる「へそ石」で有名な頂法寺・六角堂があり、その周辺には饅頭を作る店が多くあった「饅頭屋町」や扇の骨を作る職人たちが住んでいた「骨屋町」がありますが、滕屋町と同じように老舗や職人で賑わった昔の面影を見ることはできません。せめて、その記憶が残る地名だけでも残り続けてほしいものです。
滕屋町:京都市中京区滕屋町
その由来は祇園祭の山鉾にあった!
『蟷螂山町』
この町名、画数が多くて複雑ですが、案外、読める方は多いかもしれません。「蟷螂山町」は「とうろうやまちょう」と読みます。“蟷螂”とは大きなカマを持つ昆虫“カマキリ”のことで、このカマキリの“からくり”を乗せた祇園祭の山鉾、「蟷螂山(とうろうやま)」を管理していることから「蟷螂山町」と名付けられました。
山鉾の屋根の上でカマを振り上げて動くカマキリが子どもたちに人気の「蟷螂山」ですが、見方によっては山鉾の屋根に昆虫が乗っかっているというのは、不思議に思えたりします。そもそもどうしてカマキリが山鉾に乗せられているのでしょうか?
中国の詩文に「蟷螂の斧を以て降車のわだちをふせんがんと欲す」とあるように、古来よりカマキリは自分よりも強い相手であっても怯むことなく勇敢に立ち向かう生き物だと考えられてきました。
蟷螂山は自分の力をわきまえずに大敵に立ち向かうことで勇敢さを賞した中国の君子の故事に由来したもので、南北朝時代に第2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の軍と戦い、戦死したこの町出身の公卿・四条隆資(しじょう たかすけ)の勇敢ぶりを蟷螂に見立て、1376(永和2)年に四条家の御所車に蟷螂を模した飾り付けを施し、町を巡行したのが蟷螂山の始まりだとされているのです。
蟷螂山は町内の事情により、明治の初め以降、巡行を取り止めて休み山となっていましたが、1981(昭和56)年に装飾類をすべて新調し、109年ぶりに巡行復帰を果たしました。もし、蟷螂山が休み山のままであったならば、「蟷螂山町」という町名も今ほど世間にしられることはなかったでしょうね。
蟷螂山町:京都市中京区蟷螂山町
今回は『壬生梛ノ宮町(みぶなぎのみやちょう)』、『滕屋町(ちぎりやちょう)』、『蟷螂山町(とうろうやまちょう)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。
では、次回をお楽しみに。
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