京都には、いかにもいわくのありそうな地名や、読むに読めない地名が数多くあります。そんな地名とその由来をご紹介するシリーズの3回目。さて、今回、お話しする一風変わった京の地名は?
悲劇から生まれた地名
『乙訓』
京都府の南部にあるこの地名は「おとくに」と読みます。字だけを見ると、「おつくに」と読んでしまいそうですが、このような読み方になったのは、ある悲劇的な出来事があったからです。
年代は定かではありませんが、第11代天皇・垂仁天王(すいにんてんのう)が、丹波の比古多々須美知能宇斯王(ひこたたすみちのうしのみこと)の5人の娘を妃にするために大和(現・奈良県桜井市)の向珠城宮(むくたまきのみや:垂仁天王の住まい)に呼びつけたところ、その5人の娘の中で、末娘だけが美人ではないという理由で、末娘だけ丹波の親元へ送り返されることになりました。
彼女は送り返されることを恥に思い、親に合わす顔がないとして、丹波へ帰る途中、乗っていた輿(こし:位の高い人を乗せる乗り物)から、自ら落ちて、死んでしまったのです。その落ちた場所がいつしか“堕国(おちくに)”と呼ばれるようになり、それが訛って“おとくに”になったそうです。表記も“堕国”では悪いイメージがあるので、“乙訓”と改められたということです。
京都の地名には、思いも寄らない話が隠されていることがよくありますが、“乙訓”には、ひとりの若き女性の悲しい思いがあったのです。
カタカナの地名には、意外な由来があった
『ホッパラ町』
京都市山科区の北西部に「ホッパラ町」という地名があります。これは通称ではなく、正式な住所表記として登録されている地名です。京都の地名は、このシリーズでもご紹介しているように、読みにくい漢字が並ぶ地名が多いですが、そういった中でカタカナの地名というものは、珍しいことです。
“ホッパラ”は、音的には軽快で、明るいイメージがありますが、その由来にはどうも、2つの説があるようです。
1つの説としては、ホッパラ町の近くにある、日ノ岡峠を整備した際に出た大量の土砂を、現在のホッパラ町辺りに放り出した(=ほっぽりだした)ことから、ホッパラ(漢字をあてると、放土原)と呼ばれるようになったというものです。
そして、もうひとつの説ですが、それはちょっと不気味なものです。ホッパラ町の近くにある九条山(くじょうやま)には刑場があって、そこで斬首刑となった罪人の遺体を現在のホッパラ町辺りに埋めていた、つまり、「土を掘って、遺体を埋めていた原っぱ」ということで、「掘原(ほりはら)」と呼ばれ、それがいつしか“ホッパラ”とカタカナで表記されるようになったというものです。
どちらの説を信じるかはともかく、いずれの由来も“ホッパラ”から受ける軽いイメージとは違って、重いもののようですね。
将門の怨みが残る場所
『膏薬図子』
これは、ちょっと読みにくいですよね。この地名は「こうやくのずし」と読みます。“膏薬(こうやく)”と言えば、軟膏などの皮膚に塗る薬のことですが、この地名にある“膏薬”はその薬とはまったく関係はないのです。では、“膏薬”とは何を意味するのか? それを説明する前に、まず、“図子”の説明をしましょう。
京都の街にはご存知の通り、碁盤の目のように整然と「通り」が通っていて、区割りがされています。その中にさらに狭い道が通っていて、袋小路の道を「路地(ろじ:京都では、ろーじ)」、通り抜けることが出来る道を図子(ずし)、もしくは辻子(ずし)と呼ばれています。と、言うことで、「膏薬図子」とは細い通りの名前なのです。
「膏薬図子」は西洞院通(にしのとういんどおり)と新町通の間にある図子で、四条通から綾小路通(あやのこうじどおり)を南北に通る120メートルほどの細い道です。では、問題の“膏薬”について説明をしましょう。
「膏薬図子」の途中に小さな祠がありますが、この祠は神田明神です。神田明神と言えば、東京都の千代田区にある、平将門(たいらのまさかど)をご祭神とする神社として有名ですが、この膏薬図子にある神田明神も、平将門が祀られているのです。
関東で、いわゆる「平将門の乱」を起こした将門は、朝廷の連合軍に討たれ、その首は京都に持ち帰られて、四条河原辺りに晒されました。その首が晒された場所というのが、祠が置かれている場所なのです。
言い伝えによると、晒された将門の首は何ヶ月経っても腐らず、血走った目をカッと見開き、「我がカラダはいづこにある!ここに来たれ!首をつないで一戦せん!」と叫び続けたそうです。そして、将門の首は胴体を求めて、関東まで飛び去っていったと言われています。因みに首が落ちたところが、今でも祟りがあると言われている、「将門首塚〔東京都千代田区大手前〕」です。
その後、京都では災害が頻繁に起き、疫病が流行りました。それは、将門の怨みによるものに違いないということで、空也上人(くうやしょうにん:六波羅蜜寺を建てた名僧)が晒し首があった場所に念仏道場を建てて、将門の供養を行い、祠を置いたのです。その供養を、空也が行った供養と言うことで「空也供養(くうやくよう)」と呼ばれ、それが訛って“くうやく”になり、更に“こうやく”となって、当てられた漢字が“膏薬”だったという訳です。
「膏薬図子」は読むのが難解なだけではなく、恐ろしい出来事があった場所なんですね。こういう場所が街中にさりげなくあるところが、京都の面白さのひとつだったりもするのです。
以上、今回は『乙訓(おつくに)』、『ホッパラ町』、『膏薬図子』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。では、次回をお楽しみに。
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