シリーズ『一風変わった京の地名』その5

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

京都の街を訪れるときの楽しみの1つが地名です。意味ありげな地名が多く、その由来を知っては、納得したり、驚いたり…。中にはたかが地名とは言えないほど、歴史的に意味のあるものもあります。京都の地名って、ホント、奥深いのです。

さて、シリーズの5回目、今回の一風変わった京の地名は?

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

帝への愛が生んだ京の町角

『帷子ノ辻』

chimei_05-03

さて、この地名は何と読むか、おわかりでしょうか? この地名に初めて出会って、正しく読める人はほとんどいらっしゃらないと思いますが、「帷子ノ辻」は、“かたびらのつじ”と読みます。“帷子”は着物のことで、“辻”とは町角のことです。

帷子ノ辻は京都市の中心から西の、映画村で有名な太秦(うずまさ)にある地名です。京福電鉄嵐山線(嵐電)の駅名にもなっているので、読みにくい地名のわりには、京都では意外と知られている地名なんですよ。

chimei_05-04

帷子ノ辻には上品な響きがあって、何となく女性的なイメージがありますが、その由来には、嵯峨天皇の后である、檀林皇后(だんりんこうごう)が関係しているのです。

檀林皇后は生前に「私がもし死んだら、嵯峨野の原へ捨てて欲しい」という遺言を残していました。それは嵯峨天皇から寵愛を受けていた檀林皇后は、自分が死んだ後も帝に愛を引きずらしてはいけないと、恋慕愛執を絶ちきるための皇后から帝への愛ある遺言だったのです。

当時は亡くなると、葬地にそのまま放置する“風葬(ふうそう)”が一般的でしたが、高貴な人は火葬が行われていましたので、檀林皇后が風葬にされるということは、至って異例のことでした。

檀林皇后が亡くなると、遺言通り、皇后の亡骸は嵯峨野の原へ運ばれていきました。その道中のことです。皇后が身にまとっていた経帷子(きょうかたびら:死装束)が、風で舞い上がってしまったのです。そして、その経帷子が落ちた場所が辻であったことから、それ以来、この場所を「帷子ノ辻」と呼ばれるようになったそうです。帝への思いを断ち切ろうとした檀林皇后ですが、帝と暮らした都からは離れたくなかったのかもしれませんね。

ところで「帷子ノ辻」の由来には、別の説もあるようです。本来、“かた”には坂や崖という意味があるそうなのですが、今の帷子ノ辻辺りはその昔、上嵯峨、下嵯峨、太秦、常磐、広沢、愛宕への分岐点になっていた場所だったようです。現在も、帷子ノ辻駅が嵐山線と北野線の分岐点になっています。ところが、地図を見るとわかるのですが、分岐点とされながらも、この場所から南へ向かう道がなく、分岐が片寄っていることから“かたひら(片平)”と呼ばれ、それが“かたびら”となり、それに“帷子”という字が当てられたということなのだそうです。

このように2つの説があるようですが、個人的には檀林皇后に由来する説を信じたいですね。

帷子ノ辻:京都市右京区太秦帷子ヶ辻町

町名に隠された不気味ないわく

『轆轤町』

chimei_05-01

東山区にある「轆轤町」は“ろくろちょう”と読みます。この町名にある“轆轤”とは、陶器を作るときに使われる、あのグルグル回す道具のことなのですが、実はこの“轆轤(ろくろ)”という字は、後世に付けられたもので、もとは“髑髏町(どくろちょう)”と呼ばれていたそうです。髑髏とは、言うもでもなく、ガイコツ(骸骨)のことですが、徳川時代の頃に、町名が髑髏ではあんまりだということで、京都所司代が髑髏(どくろ)を轆轤(ろくろ)に改名させたと言われています。

平安時代、この地の東には鳥辺野(とりべの)と呼ばれた葬地がありました。人が死ぬとその死骸は鳥辺野に運ばれるのですが、中には鳥辺野まで運ぶのが面倒なのか、途中の鴨川に死骸が捨てられることがよくあったそうです。鴨川は今は穏やかな川ですが、昔はよく洪水が起きたそうで、水が退いた後には、川に捨てられた死骸がこの辺りの河原一面に散らばっていて、それは見るからに酷い有様だったようです。

河原にそのまま死骸を置いておくわけにはいかないので、その死骸をかき集め、この地に捨てられたのです。そういうことがあって、この辺り一帯にはおびただしい数の骸骨がゴロゴロ転がっていて、その異様さから、当時の人はこの地に「髑髏町(どくろちょう)」と呼ぶようになったと言われています。

こういった謂われを知らなければ、近くには陶器で名高い清水焼もあるので、轆轤町は陶芸に由来がある町ぐらいにしか思いませんが、実は轆轤町は不気味ないわくのある場所なのです。

chimei_05-02

轆轤町:京都市東山区轆轤町

永遠の別れの場所

『柊野別れ』

chimei_05-05

京都市北区の上賀茂に“柊野(ひいらぎの)”と呼ばれる地域があります。昔、この地域に柊(ひいらぎ)が生い茂っていたことが、この地名の由来となっていますが、その柊野には悲しい言い伝えが残っている場所があります。それが「柊野別れ(ひいらぎのわかれ)」と呼ばれる場所で、現在は交差点の名称として残されています。

chimei_05-06

演歌のタイトルにもなりそうな地名ですが、「柊野別れ」の“別れ”には、“道が分かれるところ”という意味があり、実際にこの交差点から貴船方面へ行く道と雲ヶ畑方面に行く道に分かれています。

この交差点の北方向には京都産業大学がありますが、かつては、そこに処刑場がありました。処刑される罪人の家族は、この交差点から先へは家族と言えども、罪人に付いていくことが許されず、この交差点で別れを惜しんだそうです。そういうことがあって、この交差点はいつしか、「柊野別れ」と呼ばれるようになったのです。今は車と人が行き交う単なる交差点に過ぎませんが、その昔は罪人とその家族にとっての永遠の別れの場所だったのです。

柊野別れ:京都市北区上賀茂朝露ヶ原町

以上、今回は『帷子ノ辻(かたびらのつじ)』、『轆轤町(ろくろちょう)』、『柊野別れ(ひいらぎのわかれ)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存



コメント

  1. みゅこ より:

    一番笑った名前は元悪王子でした。
    何この名前www
    今は良い王子様なのか?

    • cyber-e より:

      みゅこさん、いろいろ読んで頂いたようで、ありがとうございます。
      京都には歴史や文化、風習に関連する地名が今も多く残されています。
      面白い地名を見つけ、その謂れを探るのも京都を知る楽しみのひとつですよ(*^o^*)

  2. 元住人 より:

    残念ながら、柊野の奥に処刑場があったという歴史的事実は無いですよ。

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA