シリーズ『一風変わった京の地名』その9

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存

「京都」は元々、「みやこ」を意味する普通名詞に過ぎなかったそうです。それが、11世紀から12世紀にかけて、平安京の解体と変化する中で固有名詞として確立したのではないかと考えられているのだとか…。

京都の地名には、平安京以来、1200年もの長き変遷において、そこに生まれた歴史と文化の面白さ、奥深さが浮かび上がってきます。さて、今回、ご紹介する一風変わった地名は?

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

鳥の羽に関係が…!?

『羽束師』

chimei_09-01

この『羽束師』という地名は伏見区にあります。さて、何と読むと思いますか? ちょっと読みづらいですが、『羽束師』は「はづかし」と読みます。

音だけを聞くと「エッ!? 恥ずかしいって?」と思ってしまうような妙な地名ですが、案外、京都の人には、馴染みのある地名なのです。というのは、この『羽束師』には、京都府の自動車運転免許試験場があって、運転免許証の更新などで訪れる機会がそれなりにあるからなんです。

さて、この『羽束師』の由来ですが、そのまま漢字からすると「“羽”を“束”ねる職人」と解釈されるので、鳥に関係した仕事をしていた人たちが暮らしていた場所だったのでは?と思われるかもしれませんが、どうも鳥にはまったく関係はないようです。

古代には「はつかしべ(泥部)」と呼ばれる、瓦や石灰を焼いていた技術集団があったとされていますが、その「はつしかべ」が住んでいたのがこの地だということで、いつしか「はつかしべ」が「はづかし」と読み代わり、それに漢字が当てられ「羽束師」となったと言われています。

この「羽束師」の近くには桂川が流れていますが、昔は桂川の畔には良質の泥土があったそうで、その泥土が瓦を作るには適していたため、ここで瓦造りが盛んに行われたというわけです。最近では瓦葺きの家もめっきり少なくなりましたね。

諸説ある「宇治」の由来

『宇治』

chimei_09-02

『宇治(うじ)』と言えば、お茶の名産地。“宇治茶”のブランドで全国的に知られている地名なので、地名の由来もお茶にあるのかと思いきや、まったく違っていました。実は諸説あって、いづれの説も決め手となるものがないのですが、その諸説をご紹介しましょう。

「うじ」という地名は、喜撰法師(きせんほうし)の「我が庵は 都のたつみ 鹿ぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」という句に登場し、天保時代(1830~1844年)の書物『百人一首一夕話』にその句の解釈とともに、地名の由来が記されています。

それによると、第15代・応神天皇(おうじんてんのう)の4番目の皇子である“菟道若郎子(うじのわかいらつこ)”が、現在の宇治に住んでいたとあり、「うじ」も「菟道」という漢字が当てられていたという記録もあることから、それが「うじ」という地名の由来だとされていました。

chimei_09-03

ところが、近年になって、「うじ」は「菟道」だけではなく、「鵜路」や「宇遅」、「宇知」といった漢字が当てられていることがわかり、「菟道」を由来だとすることはやや怪しくなってきたのです。

では、そもそも「うじ」とは何を意味するのでしょうか。そのひとつの解釈が「宇治市史」に書かれています。それによると、「うじ」は北、東、南は山に囲まれており、西は巨椋池(現在は存在しない)にふさがれていたことから、“内にある地”とされ、「うち」がいつしか「うじ」と呼ばれるようになったとあります。実は前出の菟道若郎子が住む以前より、「うじ」という地名があったことがわかり、「うち(内)」が「うじ」になったという説が今では有力となっています。

ただ、奇才の博物学者であり、生物学者としても世界的に知られる南方熊楠(みなかた くまぐす)は、ウサギが群れて通ったことからできた、いわゆるケモノ道で、それは“ウサギ道(菟道)”であり、「うじ」の由来だとしています。この見解は菟道若郎子住んでいたことによる由来に近いものがありますよね、

昔から「じ」には「道」や「路」という漢字が当たられていることから考えると「うじ」の由来は、「うじ」の「う」は兎も角として、「~の道」と単純に考えるのがいいのかもしれませんね。ホント、地名の由来ってオモシロいものです。

足下しか見れなかった?

『神足』

chimei_09-04

京都市の南西に位置する長岡京市にあるこの地名は、“神”に“足”と書いて「こうたり」と読みます。サッカーの神様か、陸上の神様に関係がありそうな地名ですが、この地名の起源はサッカーも陸上もこの世にまだ存在していない「桓武天皇(かんむてんのう)」の時代にありました。

ある日、桓武天皇は不思議な夢を見ました。それは田村(神足村の旧名)にある池に天から星の神が降り立ち、宮中を南から襲ってくる悪霊を退治するという夢でした。夢から覚めると、桓武天皇は早速、側近に命じて、田村の池の畔に社を建たせ、ご神体として太刀を祀らせたのでした。この社が今も残る神足神社で、田村の名前も神足神社が建つとともに、神足村(こうたりむら)という名前に変わったそうです。

chimei_09-05

「神足(こうたり)」と呼ばれる由来は、“神様が来てくださった”ということで「神至り(かむいたり=昔は神を“かむ”と発音していた)」と言い、それが転じて「神足(こうたり)」になったと言われています。

「足」という漢字が当てられた理由は、桓武天皇が池に降り立った神様の顔を見ようとしたところ、顔を上げることができず、神様の足下しか見ることが出来なかったためだと言われています。その神様は天皇でも顔を見ることが出来ないほど畏れ多い存在だったということなのでしょうか…。

神足神社:京都府長岡京市東神足2-5

今回は『羽束師(はづかし)』、『宇治(うじ)』、『神足(こうたり)』の、3つの一風変わった地名をご紹介しました。

では、次回をお楽しみに。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Evernoteに保存Evernoteに保存



コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA