千年の都、京都はその長い歴史の中で、幾度も戦禍に会ってきました。ところが、京都はその歴史の中で一度も他国からの攻撃は受けていないとよく言われます。でも、それはまったくのデタラメで、第二次世界大戦時に京都も米軍による空襲を受けているのです。今回は京都にもあった「空襲」の話をしましょう。
京都にも無差別爆撃はあった!
「アメリカが京都にある文化財の価値を認めたため、京都は空襲を受けなかった。だから、貴重な史跡が残っているのだ」とまことしやかに言われることがありますが、それは伝説であって、事実とは異なるのです。京都市内でも米軍による無差別爆撃はあったのです。
馬町と西陣の空襲
1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲と、その3日後の13日の大阪大空襲のことはよく知られていますが、京都に空襲があったことは、あまり知られてはいないようです。京都市内にアメリカが意図的に爆撃をしたのは2回あって、それは1945(昭和20)年1月16日の馬町空襲と6月26日の西陣空襲です。
東山区馬町の空襲は1月16日も終わろうとしていた午後11時23分頃にB29が襲来し、馬町上空で、高性能爆弾3トンが投下されました。この時、記録によると、7歳の女の子を含む41人が死亡し、負傷者は48人、被害を受けた家屋は316戸とあります。
そして、6月26日のお昼前に、西陣織で有名な西陣が爆撃されます。これもB29により1トン爆弾が7発投下され、43人が死亡、66人が負傷し、292戸の家屋が被害に遭っています。
また、京都を意図して狙ったものではない、つまり、他の地域を攻撃したついでに爆弾を落としたとか、余った爆弾を捨てるという意味で落とされた爆撃は他にも4回あります。ということは、空襲としては全部で6回もあったわけです。確かに、東京や大阪の被害に比べれば、微々たるものかもしれませんが、このように空襲があったことは事実で、これで、京都には空襲がなかったと言われるのは、おかしなことです。
西陣の空襲は京都の人も知らない!?
京都では馬町の空襲は知っている人は多いそうですが、西陣の空襲については、不思議なことに京都に住んでいる人でも知らない人が多いそうです。どうして、西陣の空襲は市民に知られなかったのでしょうか。それは実際の所はわかりませんが、西陣の空襲は、東京、大阪の大空襲があった後であったことから、市民の動揺を警戒した軍が厳しい報道管制を敷いたためと考えるのが妥当でしょう。
「ウォーナー伝説」とは
そもそも京都や奈良、鎌倉といった日本の古都の文化財を保護するために空襲を控えたという話は「ウォーナー伝説」から生まれたと言われています。
「ウォーナー伝説」とは、東洋美術の研究者で、岡倉天心に師事したランドル・ウォーナー博士が太平洋戦争時に日本の文化財の一覧表(ウォーナーリスト)を作って、第32代合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトにそのリストを渡し、日本の古都を爆撃しないように進言したというものです。
「ウォーナーリスト」は京都を護るために作られたものではなかった!
ところが、ウォーナー博士が終戦後、来日した際に、マスコミからルーズベルト大統領に京都の爆撃を回避するように進言したかどうかを聞いてみると、ウォーナー博士は進言していないと答えたそうです。
ウォーナーリストが作られたことは確かなことなのですが、そのリストは古都を護るために作られたものではなく、日本が中国などの諸外国から奪った文化財の返還が必要となったときに、その損害に見合う等価値の文化財で弁償させるための資料だったのではないかと最近の研究では言われています。そういうことから、ウォーナー博士が古都を護ったという、いわゆるウォーナー伝説は連合軍最高司令部であるGHQが日本人の懐柔と親米感情を作り出すために仕立て上げた作り話だったと考えられるのです。
その真偽のほどはわかりませんが、「京都に空襲はなかった」という伝説は、アメリカにとって都合のいいものであり、国の安全保障を直視してこなかった昭和の日本にとっても都合のいいものだったのではないでしょうか。
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