京都市の中を東西に走るメインストリート四条通。その通りの東の突き当たりにある八坂神社の東側に、京都市で一番大きな公園である「円山公園(まるやまこうえん)」があります。東は東山、北は知恩院、南は高台寺に接する約3万坪(約90,000㎡:東京ドームの約2倍)にもおよぶ広大な公園で、人気の東山エリアにあることもあって、四季を通じて多くの人が訪れます。
特に桜が咲く季節には若いカップルや家族連れで賑わい、公園の中ほどには祇園の夜桜として名高い枝垂れ桜が咲き誇る、京都を代表するお花見スポットの円山公園ですが、実は江戸時代には、『忠臣蔵』で知られる赤穂浪士たちが、ある重大な決断を下した場所でもあるのです。今回は円山公園で浪士たちが運命を決めるに至るまでの話をしましょう。
主君の仇を討つことを決断した会議
京都市で最も古いとされる円山公園が造られたのは1886(明治19)年のことで、明治維新までこの辺り一帯は「真葛原(まくずがはら)」といって、祇園感神院(ぎおんかんしんいん:現在の八坂神社)や安養寺、長楽寺などのお寺が点在する場所でした。
その安養寺にはかつて「円山の六坊(六阿弥坊)」と呼ばれる6つの塔頭(多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿庵左阿弥、勝興庵正阿弥)がありましたが、江戸時代以降、これらの塔頭はすべて能楽や俳句、茶会、花の会などが催される貸し席や料亭に変わりました。今は長寿庵左阿弥だけが、料亭「左阿弥」として残っていますが、他はすべて現存していません。
赤穂浪士たちはこの六坊のうちのひとつ、「花洛庵重阿弥(からくあん ちょうあみ)」で彼らの運命を決める重要な会議を行いました。その会議とは『主君の仇、吉良上野介を討つ』ことを決断した、世の言う「円山会議」です。この会議が開かれたのは、1702(元禄15)年7月28日のことです。
片手落ちの裁を下した5代将軍綱吉
仇討ちの発端となる出来事は、1701(元禄14)年3月14日に起きた「松之廊下事件」です。
勅使接伴役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ ながのり)が江戸城内の松之廊下で、高家筆頭の吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしなか)をいきなり小刀で斬りつけるという事件が起きました。
この日は5代将軍徳川綱吉が勅使、院使に対して勅答するという特別な日であり、そんな日に城内で刃傷沙汰が起きたことに綱吉は激怒。ほとんど取り調べも行われずに、家康の時代から伝わる喧嘩両成敗の不文律を破って、長矩はその日に切腹、義央はお構いなしという、まさに片手落ちの裁を下したのです。
大石内蔵助の選択
この「松之廊下事件」は江戸から155里(約620km)離れた播磨国(はりまのくに:現・兵庫県)の赤穂にいる国家老・大石内蔵助のもとに事件発生を伝える第1便の使者が3月19日の午後6時に、そして、長矩が切腹をして命を絶ったことを伝える第2便の使者は同日午後9時に到着しました。
この時、使者は江戸から赤穂まで早打駕籠(はやうちかご)を利用したのですが、通常の駕籠であれば1週間掛かるところ、早打駕籠はわずか4日と12時間ほどで着いたそうです。宿場ごとに担ぎ手が変わり、不眠不休で走るわけですが、担ぎ手は当然ながら、駕籠の中で揺らせられ続ける方も相当、体力がいったことでしょうね。
因みに、江戸~赤穂間の早打駕籠の料金は20両で、2便で40両。現在の貨幣に換算すると約400万円ぐらいになるそうで、交通費として考えればバカ高いと思いますが、藩の一大事であるわけですから、お金のことをとやかく言っている場合ではなかったのでしょうね。
報せを受けた大石内蔵助は藩士達を城に赤穂集め、今後の対応を話し合いました。この時はまだ吉良の生死は分からず、事件の3日後の3月17日には赤穂の江戸屋敷が没収され、ゆくゆくは赤穂城も明け渡さなければならない状況の中、籠城や切腹して抗議するという意見が出ましたが、3月末に「吉良存命」の報せが届くと、今度はすぐさま吉良を討つべきだという意見も出始めました。
このようにいろいろな意見があった中、4月12日、内蔵助は赤穂城を明け渡す、つまり、無血開城を選択したのでした。そして、浅野内匠頭の弟・浅野大学(あさの だいがく)によるお家再興と吉良の処分を幕府に申し立てたのです。
出された結論は「あと1年待つ」
赤穂城を明け渡し、残務処理を終えた内蔵助は赤穂から京都の山科へ移り住みました。同じ頃、江戸では赤穂の武士達はいつ吉良を討つのかと噂になり、いつまで経っても吉良を討とうとしない赤穂の武士達は腰抜け呼ばわりされていました。
江戸に戻っていた「高田馬場の決闘」で助太刀をしたことで名を馳せた武闘派の堀部安兵衛(ほりべ やすべい)を中心とする「江戸急進派」は、討ち入りの指示を出さない内蔵助に苛立ちを募らせていたため、10月に内蔵助も江戸に下り、堀部らをなだめ、浅野大学によるお家再興に望みを託し続けました。
ところが、12月に誰もが思いもしなかった事が起きたのです。それは“吉良上野介の隠居“”でした。つまり、仇が引退してしまったのです。
年が明けた1702(元禄15)年2月15日、京都の山科の内蔵助のもとに浪士たちが集まり、今後のことについての話し合いを行いました。これがいわゆる「山科会議」です。この会議でも、すぐさま討ち入りに行くべきだという意見も出たようですが、内蔵助が出した結論は、浅野内匠頭の三回忌が終わるまで、つまり、あと1年待つということでした。内蔵助の願いはお家再興であり、浅野大学の処分が決まるまでは討ち入りの決行には慎重に対応するという考えだったのです。
内蔵助の不可解な行動
4月に入ると、内蔵助は長男の主税(ちから)だけを手元に残して、妻と他の子どもたちを実家のある但馬へ戻しました。そして、この頃から内蔵助は伏見の橦木町(しゅもくちょう)や京の島原、祇園で遊興にふけるようになったと言われています。
妻と子どもたちを実家に戻したのは、討ち入りになった場合を考えてのことだということは容易に推測できるのですが、遊郭で遊びに興じた理由は何だったのでしょうか? この内蔵助の不可解とも言える行動の理由については次の3つの説があります。
- 遊郭に通うことで復讐する気持ちが失せてしまったように見せ掛け、吉良家を油断させるための手段だったという説。
- お家再興や家臣の取りまとめのために溜まった日頃のストレスを解消するために遊んだという説。
- 内蔵助は女好きで、単に遊びをすることを好んだためだとする説。
一般的によく言われるのは1.の「吉良家を油断させるための手段」ですが、実は遊郭で遊びに興じたというのは、話の展開を面白くさせるために映画や歌舞伎が創作したエピソードだとする説もあるのです。
このようにいろいろと説があって、本当のところはわかりませんが、いづれにしても遊興にふけたというエピソードは内蔵助の堅物なイメージとは違った一面であり、案外、内蔵助は遊び好きで、敵を欺くためのカモフラージュではなく、本気で遊んでいたのかもしれません。
浪士たちが目指すは主君の仇を討つこと
7月24日、内蔵助の元に、浅野大学は本家の広島藩浅野家に引き取られることになったという報せが届きました。これによって、内蔵助が願い続けてきた浅野家再興の道は完全に閉ざされてしまったのです。
大学の処分が決定するとすぐさま、内蔵助は京と大坂にいる同志に招集を掛け、7月28日に円山安養寺の塔頭・花洛庵重阿弥で会議を開きました。この会議こそが浪士たちの運命を決めることになる「円山会議」です。
この会議に参加したのは次の19人。
大石内蔵助、原惣衛門(はら そうえもん)、間瀬久太夫(ませ きゅうだゆう)、小野寺十内(おのでら じゅうない)、大石主税(おおいし ちから)、潮田又之丞(うしおだ またのじょう)、堀部安兵衛、大石瀬左衛門(おおいし せざえもん)、不破数右衛門(ふわ かずえもん)、岡野金右衛門(おかの きんえもん)、貝賀弥左衛門(かいが やざえもん)、大高源吾(おおたか げんご)、武林唯七(たけばやし ただひち)、間瀬孫九郎(ませ まごくろう)、小野寺幸右衛門(おのでら こうえもん)、矢頭右衛門七(やとう えもしち)、三村次郎左衛門(みむら じろうざえもん)、岡本次郎左衛門(おかもと じろうざえもん)、大石孫四郎(おおいし まごしろう)。
浅野家再興の望みを絶たれた彼らが目指すは主君の仇、吉良上野介を討つこと。主君・浅野内匠頭の死から1年4ヶ月の間、浪士の間で対立が続きましたが、この時、強硬派と慎重派には意見の違いはまったくなく、浪士たちの目指すところがやっとひとつになったのです。
本懐を遂げた赤穂浪士たち
この後、内蔵助は討ち入りに臨むにあたって、同志の意思を確かめるために「神文返し(しんもんがえし)」を行いました。円山会議が行われた時点で、内蔵助に神文(誓約書のようなもの:起請の内容に偽りがあったり、背いた場合は神仏の罰を受けると記された文)を提出した約120名の浪士に対して、腹心の貝賀弥左衛門と大高源吾を派遣して、討ち入りは取り止めになったと偽って神文を返したのです。
神文をこれ幸いと素直に受け取った人は討ち入りのメンバーから外し、その逆に討ち入りが取りやめになったことに怒り出した人には真実を伝え、討ち入りの計画を伝えたのでした。こうして約120名いた浪士たちは47人に絞られたのです。
1702(元禄15)年12月14日の夜半。兼ねてからこの日の夜に吉良邸にて茶会が催されるという情報を得ていた赤穂浪士たちは3ヵ所に分けられた集合場所に待機していました。
そして、15日の午前4時頃、吉良邸に表門と裏門の二手から突入。討ち入って約2時間後に上野介を捕らえ、その場で首を打ち落とし、赤穂浪士たちは見事、本懐を遂げたのです。
浪士たちの運命を決めた円山公園
1889(明治22)年に京都府から京都市に移管されて、京都市で最初の都市公園として誕生した円山公園は、1912(大正1)に近代日本庭園の先駆者と称せられる小川治兵衛(おがわ じへえ)によって池泉回遊式の日本庭園が造られ、現在の形になりました。市内の行楽地である円山公園が赤穂浪士たちの運命を決める決断をした場所であることを知る人は、今は多くはないようです。
円山公園:京都市東山区円山町 TEL : 075-222-3586
安養寺:京都市東山区八坂鳥居前東入ル円山町 TEL : 075-561-5845
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