夢窓疎石 ~“国師”の称号を与えられた高僧は優れた作庭家でもあった!

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京都の中で、四季を通じて訪れる人で賑わう嵐山。大堰川(おおいがわ)に架かる渡月橋とその奥に広がる嵐山の姿は、京都を代表する風景のひとつですが、その渡月橋のすぐそばに世界文化遺産にも指定されている「天龍寺(てんりゅうじ)」があります。

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臨済宗(禅宗)天龍寺派の大本山である天龍寺は、室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)が吉野で亡くなった南朝の後醍醐天皇の菩提を弔うために建てた寺院で、京都五山の第1位(京都にある臨済宗の5大寺で、寺格を表したもの。南禅寺を別格として五山の上に置き、順に天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と位置づけている)に置かれていますが、この天龍寺の建立には、ある1人の僧侶が大きく関わっていました。その僧侶の名は夢窓疎石(むそう そせき)。 今回は臨済宗の禅僧、「夢窓疎石」の話をしましょう。

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8歳にして出家した夢窓疎石

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1275(建治1)年、近江源氏の末裔として伊勢国(現:三重県)に生まれた夢窓疎石は、生後間もなく母方の北条氏の内紛に巻き込まれ、一家共々、甲斐国(現:山梨県)に移り住みました。

疎石が3歳の時、母は「お前は、私が観世音菩薩に願って授かった子。13ヶ月もお腹に居て、生まれてからは、お経を聞けば泣き止み、誰も教えてもいないのに仏像に向かって手を合わせる子どもでした。お前は仏に導かれた特別な子どもなのかもしれないから、私が死んだら仏門に入って、私を弔っておくれ」と言い残して、この世を去ってしまいました。

そして、疎石は母の遺言通り、わずか8歳にして甲斐国(現:山梨県)にある天台宗の寺院、平塩山寺(へいえんざんじ)の空阿上人(くうあしょうにん)のもとに弟子入りし、僧侶としての道を歩み始めたのです。

疎石の人生を変えた出来事

仏門に入った疎石は、天台宗の他の寺や真言宗の寺などを巡り、密教僧として修行をしていましたが、20歳の時、疎石の人生の転機となる出来事が起こりました。それは、師と仰いでいた僧が死を迎えた際に、酷くうろたえ、見るに耐えない見苦しい姿で亡くなったのです。そんな師匠の無様な死を見た疎石は、高僧でありながら、死に直面すると悟りの境地に達することなく、醜態を晒すとは、一体、自分が今まで修行してきたことは何だったのかと疑問を持ち、信じ続けてきた宗派に対して不信感を抱くようになったのです。

暫く悩み続けた疎石は、ある日、夢を見ました。それは中国の禅僧・疎山光仁(そざん こうにん)と石頭希遷(せきとう きせん)に禅寺に連れて行かれ、そこで達磨大師(だるまだいし)が描かれた絵を渡されるという奇妙な夢でした。目覚めた疎石は、その夢の意味を、自分を禅宗に導く意味だと理解し、禅宗の修行をするために京都の建仁寺の門を叩いたのです。因みに、“疎石”という名前は、夢に現れた2人の禅僧の名前からそれぞれ1字ずつ取って、自らが名付けたそうです。

天皇から“国師”の称号を与えられた疎石

建仁寺で1年間ほど修行をした疎石は、50歳を過ぎる頃まで全国を行脚し、更なる修行を重ねました。しかし、疎石は単なる修行僧ではありませんでした。修行をすると同時に庭造りも行ったのです。そして、天皇のみが与えることができる「国師(こくし)」という称号を与えられた僧でもあったのです。「国師」とは一番位の高い僧に与えられる称号で、疎石は生前と死後にわたり、7人の天皇から7度も「国師」の称号を賜ったことから、「七朝帝師(七朝国師)」とも呼ばれていました。それだけに、政治的発言力も強く持っていたとされ、時の権力者にも重用された人物だったようです。

疎石が手掛けた数々の庭

疎石は、西芳寺(京都市西京区)、天龍寺(京都市右京区)、永保寺(岐阜県多治見市)、瑞泉寺(神奈川県鎌倉市)、恵林寺(山梨県甲州市)、覚林房(山梨県身延町)等の庭園を手掛けていますが、その中でも特筆すべきは西芳寺と天龍寺の庭園でしょう。

“極楽浄土”を表現した西芳寺の庭

西芳寺(さいほうじ)も天龍寺と同様に世界文化遺産のひとつとして登録されています。苔が美しいことから「苔寺(こけでら)」とも呼ばれますが、もしかすると「西芳寺」という正式名よりも通称の「苔寺」の方がよく知られているかもしれませんね。

疎石が西芳寺の再興と作庭を手掛けたのは1339(暦応2)年のこと。庭は上段と下段で構成され、上段が枯山水庭園、下段が池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)で、池の周囲は100種類以上もの美しい苔で埋め尽くされています。

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疎石は西芳寺の庭に仏教の理想の世界である「極楽浄土」を表現しました。木漏れ日に映える美しい苔と池のある下段の庭園が“極楽”、ゴツゴツとした岩が転がり、水のない枯れ滝の石組みが広がる上段の庭園が“地獄”を表していると言われています。

疎石の秀でた作庭の才能を感じることができるのが、この上段の枯山水庭園。疎石は日本において、一番最初に「枯山水」を手掛けた人物とされていますが、疎石が表現した石組みを心静かに見ていると、水が一滴も流れていない枯れ滝に不思議と水の流れやその音までもが想像できてしまいます。それは優れた作庭家だった疎石だからこそなせることなのかもしれません。

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因みにこの庭が作庭された頃は、苔はまったくなかったそうです。応仁の乱によって西芳寺は荒廃し、長年放っておかれたために、自然と時間が苔を作り出し、庭を覆うようになったのです。人のチカラが及ばない、まさに“極楽”! 疎石と言えども、さすがに苔が庭を覆い尽くすとは予想していなかったことでしょう。

疎石の提案によって建立された天龍寺

そして、天龍寺の庭。法堂と大方丈の横を過ぎると、突然、目の前に巨大な池を配した庭園が広がります。この庭は「曹源池庭園(そうげんちていえん)という名が付けられており、嵐山を借景としたスケールの大きな庭です。この庭を手掛けたのが疎石です。

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奇しくも疎石が西芳寺の再興と作庭を始めた同じ年(1339年)の8月16日に、後醍醐天皇は都奪還を夢見たまま、吉野で崩御してしまいました。そこで、尊氏が日頃から信頼を寄せていた疎石が「国家の混乱が治まらないのは、亡き後醍醐天皇の無念からではないでしょうか? この災いを鎮めるために、天皇の菩提を弔う寺院を建てられたら如何でしょう」と進言すると、尊氏と尊氏の右腕だった弟の直義(ただよし)はその疎石の言葉に同意し、同年10月5日に天龍寺の創建が決定したのです。

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幕府の財政難を救った疎石

天龍寺の造営は、後嵯峨天皇の亀山離宮の跡地で始まりましたが、この頃、出来て間もない室町幕府は、南朝との戦いで財政難に陥っていたため、天龍寺を建てるうちに資金繰りが難しくなってしまいました。そこで、尊氏はどうしたものかと疎石に相談を持ちかけると、思いもしなかったことを提案したのです。それは中国・元との貿易の再開というものでした。これが、いわゆる「天龍寺船」の始まりで、長きに渡る中国との貿易は、たったひとつの庭を造るために始まったとも言えるのです。

疎石が提案した貿易を行うと、瞬く間に莫大な利益が生み出され、天龍寺の造営はもちろんのこと、幕府の財政難も救われ、その後の室町幕府は繁栄を極めることになったのです。疎石は僧侶であり、作庭家でありながら、政治家でもあり、経営アドバイザーでもあった、まさにマルチな人物だったのです。

人としても器が大きかった!

1351(正平6)年9月30日、疎石は77年の生涯を閉じました。時の権力者に帰依された禅僧・夢窓疎石には1万人以上の門弟がいたと言われています。それは疎石が“国師”の称号を受けるほどの高僧であっただけではなく、人間・夢窓疎石として魅力があったからでしょう。それを垣間見るエピソードが言い伝えられています。

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ある日のこと。鎌倉に滞在していた疎石は、弟子を連れて信州に旅に出ました。途中、天竜川を下ろうと10人乗りぐらいの小さな舟に乗り込み、出発を待っていると、ベロンベロンに酔ったひとりの武士が乗り込んで来ました。

武士は周りの乗客が迷惑していることなど気にすることなく、やりたい放題に騒いでいました。その武士の余りの傍若無人ぶりに見かねた疎石が、武士を荒げないように優しくたしなめると、「うるさいわ、このクソ坊主!俺が邪魔なら、お前が舟から下りろ」と武士は怒鳴りながら、手に持っていた扇子で、疎石の眉間をビシッ!と叩いたのです。流れる一筋の血…。それを見た弟子がカッとなって武士に飛びかかろうとしましたが、疎石は弟子を止めて、懐から出した紙に一筆、何かを書きました。そして、その紙を弟子に見せると、弟子はたちまち落ち着きを取り戻し、その場は収まったのです。

舟から下りる頃には、武士も酔いが覚め、疎石に無礼な行いをしたことを謝ろうと名を尋ねると、有名な夢窓疎石であることを知り、驚いた武士はひれ伏して謝ったそうです。そして、弟子から疎石が書いた紙を見せて貰うと、そこには「うつ人も うたるる人ももろともに ただひとときの 夢のたわむれ」と書かれていたのです。夢窓疎石は器の大きな人でもあったようですね。

天龍寺:京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 TEL : 075-881-1235

西芳寺(苔寺):京都市西京区松尾神ヶ谷町 TEL : 075-391-3631 ※拝観に当たっては、事前申込みが必要。

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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