小野小町 ~絶世の美女の真実

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エジプトの“クレオパトラ”、中国の“楊貴妃”、日本の“小野小町”。この3人と言えば、ご存知の通り、世界三大美人と呼ばれ、美人の代名詞のように喩えられる女性たちです。今回はその世界三大美人のひとり、京都にゆかりのある「小野小町(おののこまち)」の話をしましょう。

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謎多き女性

絶世の美女と謳われた小野小町は、9世紀中頃、平安時代前期に生きた女流歌人です。歴史に興味のない人でも、百人一首などで名前ぐらいは知っているほどの有名な人物ですが、そのわりには彼女が歌人であり、六歌仙のひとりだったということ以外、その出生も生い立ちも、何一つわかっていないという、ミステリアスな女性なのです。

小町は名前ではなかった!?

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日本全国に、小野小町が絶世の美女であったという伝説や、それにまつわる逸話が数々、残されていますが、彼女の出生の地や終焉の地だと言われる場所は全国各地に20箇所以上もあり、どこで、どのように生きた女性なのかは今でも謎のままです。そして、彼女の名前も不明なのです。「エッ、名前が不明って、“小町”じゃないの?」と思われるかもしれませんが、小町は名前ではないのです。小町とは役職や官位などを表す記号のようなものなのです。

小野小町の正体

平安時代では、女性は実名で呼ばれず、父や夫の役職名で呼ばれることがよくあったそうです。例えば、枕草子の作者として有名な“清少納言”は、父の清原元輔が少納言であったことから、“清”と“少納言”を合わせて、“清少納言”と呼ばれました。また、源氏物語の作者、紫式部も父の藤原為時が式部という役職に就いていたことから、清少納言と同じように、最初は藤式部と呼ばれていました。紫式部と呼ばれるようになったのは、源氏物語で「紫の上」を書いた頃からとされています。と言うことは、「紫の上」を書かなければ、源氏物語の作者は“藤式部”として、世に残ったかもしれませんね。あっ、ちょっと話が逸れそうになりそうなので、もとに戻します。

そういう習慣から、小野小町は、遣隋使で有名な小野妹子の血筋にあたる中級貴族、小野氏の娘であった可能性があると言われています。そして、小町と呼ばれたのは、彼女が天皇の更衣だったからということです。天皇の妻には皇后、中宮、妃、女御、更衣という順に位があり、一番下の位の更衣は、殿舎、つまり住居は与えられず、建物の中を屏風や几帳を仕切って作られた簡素な部屋で生活をしていました。その部屋を“町(まち)”と言われていたことから、小町と呼ばれるようになったのではないかと言われているのです。

また、別の説としてあるのが、仁明(にんみょう)天皇の更衣に、“小野吉子(おのの きちこ)”という女性がいたことが、「続日本後記」に記されていますが、この吉子こそが、小野小町だったのではという説です。

結局の所、小野小町については説ばかりで、はっきりとした実像は何もわからないに等しい人物なのです。小野小町ほど、有名でありながら、これほど謎に包まれた女性は歴史上、他にいないのではないでしょうか。

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悲しき物語も作られた逸話だった

小野小町の美しさを物語るものとして、深草少将の「百夜通(ももよがよい)」という有名な逸話があります。

その美しさから、彼女は多くの男性から求婚されますが、その中でも、とりわけ熱心だったのが深草少将(ふかくさしょうしょう)でした。彼の夜な夜なの執拗なアタックに辟易していた小町は仕方なく、「私の所に100日、通い続けられれば、結婚しましょう」と約束するのです。それを信じた深草少将は、雨の夜も雪の夜も、睡眠不足の中、せっせと恋しい小町のもとに通い続けたのでした。

少将が暮らす深草から、小町が住む山科の小野の里までは一里半(約6キロ)ほどでしたが、毎晩、通うとなると、かなりの忍耐と体力が必要だったことでしょう。でも、そこは恋する者は強きかなということで、彼は必死に99日、通ったのです。約束の日数まであと1日。ところが、最後の夜、深草少将はついに過労と大雪のために力尽き、途中で倒れて、そのまま凍死してしまったのでした。

時は変われど、女性を慕う男性の想いは今も変わらぬもの。男として、深草少将の気持ちはよくわかるだけに、悲しい話です。ところで、この深草少将は実在していないと言われています。恐らく、この「百夜通」は、小町の美人伝説を強調するために、勝手に後世の人が作り上げた逸話なのでしょうね。

絶世の美女、小野小町を生み出した人物

このように、小野小町は数々のエピソードのもとに、絶世の美女として語り続けられて来ましたが、実は小町の美人伝説を最初に生み出したとされる人物がいたのです。その人物とは、“紀貫之(きのつらゆき)”。

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紀貫之は平安中期を代表する歌人で「古今和歌集」の選者のひとりとして知られた人物です。小野小町の死後、半世紀ほど経った頃、彼は六歌仙のひとりに小町を選びますが、その時、彼は小町の歌を次のように評したのでした。

「小野小町は、いにしへの衣通姫の流なり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」

“衣通姫(そとおりひめ)”とは、日本書紀や古事記に登場する伝説の絶世の美女のことですが、貫之は小町の歌を衣通姫の如く、か弱きも美しい女心を歌った歌だと評したところ、後にその文章が誤解されて、小町本人が絶世の美女とされた衣通姫に似ているという意味に解釈されたことが、小野小町は絶世の美女と言われる由縁になったとされています。つまり、紀貫之の書評が “小野小町絶世の美人伝説” を生み出したということになるわけですね。

多くの貴公子たちからの求愛になびかなかった小野小町の生涯は果たして、幸せなものだったかどうかはわかりませんが、後生の人から絶世の美女とされたことには、きっと、今も草葉の陰でニコッと微笑んで満足していることでしょう。

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(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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コメント

  1. 高橋 誠 より:

    初めてご連絡させて頂きます。私は、不動産の関係の団体に所属しているものですが、私が住んでいる秋田県において、本年9月にセミナーが開催され、そのパンフレット作りを行っている次第です。全国からもお客さんが来ることから、秋田の色を出すために、表紙は小野小町で行こうと役員会できまりました。その画像を探していたところです。そこで、こちらのサイトにたどり着いたのですが、一番上のブルーの着物の小野小町がとても素晴らしく、この画像を使用させて頂けないかと思いご連絡した次第です。
     メールでは、なかなかうまくご連絡できておりませんが、いかがなものでしょうか?

    • cyber-e より:

      高橋様

      御連絡頂き、誠にありがとうございます。
      当方のサイトに掲載している「小野小町」の画像をご使用されたいとのことですが、この画像は当然のことではありますが、当方が所持するものではありません。
      当サイトで使用するに当たって、版権を持っている機関を探したところ、結局、明確なことが分からず、非営利目的のサイトであれば、問題はないのではということで使用させて頂いてます。今回、この画像を使用されるパンフレットがもし何らかの営利目的につながるものであれば、使用されるのはどうかと思われます。

      また、当方が所持する画像のデータサイズはJPEGで640ピクセル×429ピクセルです。非常に小さな解像度ですので、制作されるパンフの大きさはわかりませんが、印刷物に耐えれる画像ではないかと思われます。

      こういった点を考慮して頂き、使用されるかどうかの判断をして頂ければ幸いかと思います。
      最後に、もし使用されるということで、今後、何かのトラブルが発生致しましても、当方は一切、関知、責任は負いませんので、その点はご理解ご了承ください。
      よろしくお願い致します。

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