坂本龍馬暗殺の日 ~幕末を駆け抜けた風雲児の最期

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1867(慶応3)年12月10日(旧暦:11月15日)の夜、京都の近江屋で何者かに襲撃を受け、暗殺された坂本龍馬。日本の夜明けを夢見て、維新の風を起こした坂本龍馬は、33年という短い生涯を駆け抜けました。今回は幕末の風雲児、坂本龍馬の最期の日の話をしましょう。

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坂本龍馬、暗殺の現場

1866(慶応2)年1月に起きた寺田屋事件(寺田屋騒動)は、妻のお龍さんの機転で難を逃れたことで有名な事件で、その事件の現場となった京都・伏見の旅籠「寺田屋」も、龍馬ゆかりの場所として龍馬ファンのみならず、多くの人に知られていますが、龍馬が暗殺された場所は、意外と知られていないようです。

その場所は、京都の繁華街、河原町通の三条と四条の間(京都市中京区河原町通蛸薬師下ル塩谷町)。今は、石碑と駒札(名所旧跡の由来が書かれた立て札)、そして、献花台が置かれていますが、この地には龍馬暗殺の現場となった土佐藩御用達の醬油商・近江屋がありました。

暗殺直前の龍馬の動き

寺田屋事件で、奉行所の役人ふたりをピストルで射殺した龍馬は、お尋ね者の身となっていたため、居場所を転々と変えていました。近江屋で寝起きをする前は、木屋町三条下ルの木材商・酢屋(現在も当時の場所で木材商を営まれてる)に身を寄せていたようです。

龍馬は一番、安全な土佐藩邸(近江屋のすぐ近く)に入りたかったようですが、土佐藩を脱藩した龍馬は、その後、脱藩した罪は許されたものの、土佐藩邸への出入りは禁止されていたため、その願いは叶わなかったのです。

龍馬は日頃、近江屋の裏庭にあった土蔵で寝起きをしていたそうです。それは、人目につきにくいということと、何かあれば、すぐに逃げることができるからでした。ところが、風邪をこじらせてしまったため、暗殺される前日の11月14日に、近江屋の母屋の2階にある座敷に移ることになったのです。この時、龍馬はまさか自分が殺されるとは思いもしなかったことでしょう。

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盟友とのひととき

翌11月15日、この日は朝から冷たい雨が降っていました。午後6時頃、床に伏せっている龍馬のもとに、盟友の中岡慎太郎が尋ねてきました。その目的は、幕府に捕らわれた仲間の身柄をどのようにして受け取るかという相談を龍馬とするためでした。

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小一時間ほど、話をしていると、そこに、龍馬が親しくしていた土佐藩士・岡本健三郎と、中岡が親しくしていた、書店菊屋の息子・峯吉がやって来ました。

しばらくして、相談も終盤になり、龍馬は峯吉に夕食の鍋に入れる軍鶏(シャモ)を買いに行かせました。その時、岡本も別に用事があるからと、峯吉と一緒に出て行ったのです。

龍馬、最期の時

龍馬と中岡が火鉢を囲んで話をしながら、峯吉の帰りを待っていた午後8時半過ぎのことです。7人の男たち(刺客)が尋ねてきたので、龍馬の護衛をしていた、元力士の藤吉が応対に出ると、「我らは十津川郷士(とつかわごうし:南大和の十津川郷に在住する下級武士の集団)のものだが、坂本先生はおられるか?」と聞いてきたのでした。藤吉は来客の旨を2階にいる龍馬に伝えようと階段を上がろうとした、その時、男たちは、藤吉を背中から切り倒したのです。

その騒ぎを耳にした龍馬は、藤吉がふざけていると思い、土佐弁で「ほたえんな!(騒ぐな)」と叫んだ途端、男ふたりが龍馬と中岡がいる座敷に飛び込んできて、いきなり龍馬たちを斬りつけたのです。この時、龍馬は額を左から右へ真一文字に斬られ、それは、脳漿(のうしょう)が飛び散るほどで、これが致命傷となったと言われています。京都国立博物館には、龍馬たちがいた座敷の調度品が保管されていますが、その中にある龍馬の血痕が付いた掛け軸を見ると、その血痕の飛び散り方から、座っていた龍馬の額を横向きに斬られたことが想定できるそうです。

龍馬はそんな深い傷を負いながらも、床の間に置いてあった愛刀「吉行」に手を伸ばそうとしたのですが、今度は背中を右上から左下に斬られてしまいました。それでも、龍馬は戦おうと、愛刀を手にして立ち上がろうとしたところ、またもや、刺客の刀が振り下ろされましたが、この時、かろうじて自分の刀の鞘で刺客の刀を受け止めたようです。(その証拠に、龍馬の刀の鞘には刀傷が残っている)ところが、深い傷を負った龍馬には力がなく、そのまま押されて、前頭部を斬られてしまいました。そして、ついに龍馬は倒れてしまうのです。この間、数秒の事だったそうです。不意に襲われたわけですから、北辰一刀流の名手と言われた龍馬でさえ、為す術はなかったのでしょうね。

龍馬と一緒にいた中岡も10カ所以上斬られましたが、刺客のひとりが龍馬の様子を見て「もうよい」と言って、2人の止めは刺さずに、刺客たちは去っていきました。

虫の息の龍馬は、血溜まりの中で「残念だ…」と呟き、愛刀に映った自分の額の傷を見て、「俺は脳をやられたから、もう駄目だ」と言って、事切れました。この日、11月15日(旧暦)は奇しくも、龍馬の誕生日でした。

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この後、変わり果てた龍馬と瀕死の状態の中岡は、軍鶏を買って戻ってきた峯吉によって発見されますが、まだ息のあった中岡も、襲撃された状況を土佐藩士に伝えた後、2日後に亡くなりました。

早過ぎた、龍馬の死

龍馬の非業の死の1ヶ月前に大政奉還は成し遂げられていました。その時、勝海舟はこんなことを言っています。

「薩長同盟も大政奉還も、全部、龍馬1人で考えてやったこと。あの大ボラ吹きは、言葉ひとつで薩摩という大藩を動かしおった」

いよいよ時代が大きく動き出す、その矢先に暗殺された坂本龍馬。歴史に「もしも」はないと言いますが、もしも龍馬が生きていたら、どうしていたでしょう…。龍馬が暗殺された翌月、王政復古の大号令が発せられ、新しい日本が誕生しました。この国の将来を憂い、この国のためにと強い意志で駆け抜けた龍馬の死はあまりにも早過ぎたのです。

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(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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