平安時代初期に天皇の命によって編纂された歴史書『日本後記(にほんこうき)』に、第52代天皇・嵯峨天皇が「花宴の節(かえんのせち)」という、花を愛でる会を開いたという記述があります。行われた季節が桜が咲く頃だったことから、この「花宴の節」が日本史上初のお花見だと考えられているのですが、このお花見が開かれた場所というのが「神泉苑(しんせんえん)」です。
お花見発祥の地、神泉苑。今も桜が美しい神泉苑ですが、実はその美しさとは違った、ある出来事が伝わる場所でもあるのです。今回は平安京遷都とほぼ同時期に造営されたとされる「神泉苑」の話をしましょう。
神泉苑は宮廷の遊び場だった!
世界文化遺産に登録されている江戸時代の城・二条城のすぐ南に「神泉苑」はあります。
現在の神泉苑は東寺真言宗のお寺ですが、元は桓武天皇が平安京とともに大内裏に接して造営した禁苑、つまり皇室のための庭園で、歴代の天皇や貴族たちが、観花や船遊び、管弦、詩歌、弓射などを楽しんだ華やかな宮廷の遊び場でした。
京都盆地は昔、湖の底で、その水が干上がったことでできたという説がありますが、神泉苑にはその説を裏付ける名残があり、清流が湧き出すことから「神泉苑」と名付けられたそうです。
今の神泉苑は、その敷地の半分以上を「法成就池(ほうじょうじゅいけ)」という名の池が占めていますが、江戸時代に二条城が創られるまでは、今より数倍、大きな池があって、全体の敷地も広大で、北は二条通から南は三条通まで、東は大宮通から西は壬生通までの、南北4町東西2町もの広さがあったと言われています。
今は当時の8分のⅠ程度の面積になってしまいましたが、法成就池の周りには季節の花と緑が溢れ、自然の姿を活かした美しい庭園であることは今も変わりはありません。
空海と守敏の法力の競い合い
天皇や貴族の遊び場だった華やかな神泉苑。ところがその華やかな裏には別の顔がありました。神泉苑は京の都が干ばつや疫病に見舞われたときに、雨乞いや疫病を治めるための神事が行われた場所でもあったのです。
雨乞いの中でも特に有名なのは、干ばつが続いていた824(天長1)年に第53代・淳和天皇の勅命によって行われた雨乞いの祈祷です。この祈祷では、弘法大師空海と守敏(しゅびん)僧都の法力競争が、現在も法成就池に架かる赤い欄干の法成橋で行われました。
最初に守敏が祈祷を行うとすぐに雨は降り出しましたが、続いて、空海が祈祷を行っても雨は降りませんでした。何故ならば、守敏が法力によって雨の神である竜神を水瓶の中に閉じ込めていたからです。
雨が降らない理由が分かった空海は、天竺にある無熱池(むねつち、又はむねっち:現在のチベットにあるマナサロワール湖だと考えられている)に住んでいる善女竜王(ぜんにょりゅうおう)に祈ると、にわかに黒雲が湧き出し、雨が降り出しました。
守敏が降らせた雨は都にしか降りませんでしたが、空海が降らせた雨は都だけではなく、国中に3日間降り続き、国土を潤したと言われています。
因みに祈祷が行われたと言われる法成橋は、ひとつだけ願い事をしながら渡ると、その願いが叶うという言い伝えがあります。これも善女龍王の霊力による賜物ということなのでしょうか…。
雨乞いの祈祷が行われてからは、善女龍王は神泉苑に住んでいると考えられ、善女龍王を龍神様として祀る「善女龍王社」を建てて、その後も祈雨が盛んに行われました。
ある男と女の出逢いの場所
1191(建久2)年、後白河天皇の時代にも盛大な雨乞いが行われましたが、そこである男と女の出逢いがありました。
芸能好きの後白河天皇は、いつもの雨乞いとは趣向を変えて祈祷僧は呼ばずに、代わりに100人の白拍子(男装で舞う妓女)の舞で善女龍王を喜ばせ、雨を降らせようと考えました。この時、検非違使(けびいし)の判官として後白河天皇のお供をしていた人物が源義経です。
白拍子は1人ずつ舞を披露しましたが、99人目の白拍子の舞いが終わっても雨が降ってくる気配はまったくありませんでした。そして、100人目の白拍子が舞い始めると、不思議なことに突然、雨が降り出したのです。この100人目の白拍子こそが、その美貌と絶妙の舞で当代一の白拍子と評された静御前(しずかごぜん)だったのです。これが源義経と静御前との初めての出逢いだと言われています。
後に2人は恋に落ち、最後は悲しい結末を迎えることとなり、悲恋物語として語り継がれることになるのですが、神泉苑が義経と静の運命の出逢いの場所であることから、今は苑内にある恋みくじが訪れる女性に人気なのだそうです。
御霊会は怨霊を鎮めるための儀式だった!
今から1150年ほど前、平安京のみならず、全国的に疫病が蔓延し、多くの人が亡くなるという事態が起きましたが、当時は疫病が流行るのは、この世に怨みを残して死んだ人の怨霊のためだとされ、それを鎮めるために「御霊会(ごりょうえ)」と呼ばれる鎮魂の儀式が京中のあちらこちら行われました。記録によると863(貞観5)年に神泉苑で行われた御霊会が、最初に行われた御霊会だとされています。
この御霊会では、祈りを捧げるだけではなく、歌や舞、弓矢、競べ馬などの催しが数々行われたそうです。まるでお祭りのような賑やかな御霊会ですが、これは天皇や貴族たちが見て楽しむためではなく、6人の霊を慰めるためでした。
この6人とは「六所(ろくしょ)」と呼ばれ、この世に並々ならぬ恨みを残して亡くなった人たちです。
- 早良親王(さわらしんのう:崇道天皇)~桓武天皇の側近であった藤原種継(ふじわら たねつぐ)が何者かに暗殺され、腹心を失って怒り狂った桓武天皇は自分の実の弟である早良親王に嫌疑を掛け、早良親王は乙訓寺(おとくにでら)に幽閉された後に、淡路島へ流され、その途中で絶命。
- 藤原吉子(ふじわらのよしこ)~桓武天皇の第三皇子・伊予親王の母。謀反を疑われ、服毒自殺。
- 伊予親王(いよしんのう)~母・藤原吉子とともに謀反を疑われ、服毒自殺。
- 藤原仲成(ふじわらのなかなり)~平城上皇から寵愛されていた仲成は、上皇が嵯峨天皇と対立した際に、捕らえられ、政治を混乱させたとあらぬ罪を課せられ処刑。
- 文室宮田麻呂(ふんやの みやたまろ)~官吏であった宮田麻呂は謀反を企てたと落とし入れられ、伊豆に流され死亡。
- 橘逸勢(たちばなの はやなり)~官僚であり、書家でもあった逸勢は、承和の変に加わったとされて、伊豆に流され、その途中で病死。
祇園祭の発祥
ところが、大々的に行われた御霊会でしたが、6人の恨みは相当に深かったのか、疫病は治まるどころか益々、蔓延していきました。そこで、869(貞観11)に今度は神泉苑の法成就池に当時の国の数を表す66本の鉾を立てて、その鉾に諸国の悪霊を宿らせる御霊会を行いました。すると疫病は瞬く間に治まったそうです。その時にはその鉾を持って京中を練り歩いたとも言われており、それが祇園祭の始まりだとされています。
京都のパワースポットのひとつ、神泉苑
1603(慶長8)年、徳川家康は京都に滞在する間の宿泊場所として、聚楽第(じゅらくだい:豊臣秀吉が大内裏跡に建てた邸宅)の南に二条城を築城しました。その時、神泉苑の広大な敷地の北の大半は二条城の敷地となり、往古の姿はほとんどが失われてしまいましたが、本来、天皇や貴族たちの遊び場であったことを思わせる景観は今も見ることができます。
神秘的な雨乞いや疫病を治めるための神事が行われた場所…。神泉苑はただ美しいだけではなく、不思議なパワーに満ちた場所でもあるのです。
神泉苑:京都市中京区御池通神泉苑東入ル門前町166 TEL : 075-821-1466
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