京都、一乗寺。白川通から東に上がる、緩やかな坂の途中に「小有洞(しょうゆうどう)」と書かれた扁額を掲げる板葺きの小さな門があります。その門のくぐり、静寂に包まれた竹林の小径を進むと、侘びた庵が見えてきます。ここは、江戸時代の文人・石川丈山(いしかわ じょうざん)が、終の棲家として建てた山荘、「詩仙堂(しせんどう)」。今回は、石川丈山が90歳で没するまで風流三昧に暮らした「詩仙堂」の話をしましょう。
詩歌を愛した文人・石川丈山
詩仙堂は、1641(寛永18)年に文人であった石川丈山が隠居生活を送るために建てた山荘です。
丈山は、源氏の流れを汲む三河武士の一族の家に生まれ、徳川家康の譜代の家臣として将来を嘱望された武士でした。16歳で家康に仕え、剣術、馬術、兵法に優れた丈山は、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに出陣し、家康の信頼を得ますが、1615(元和1)年の大坂夏の陣において、禁じられていた先陣争いで抜け駆けをしたために、家康の怒りを買い、蟄居(ちっきょ)の身となり、徳川家を離れることになりました。
33歳で武士の身分を捨てた丈山は、それからは文人として朱子学を学び、59歳の時に詩仙堂を造営したのです。
“詩仙堂”と呼ばれる、その由来は?
詩仙堂という名称は、丈山が風流な暮らしをした場所として相応しいものですが、創建当時、丈山は、「凹凸窠(おうとつか)」と呼んでいました。とても建物の名称とは思えない風変わりな名称ですが、この「凹凸窠(おうとつか)」とは、“でこぼこした土地に建てた住居”という意味なのだそうです。これも詩歌をこよなく愛した丈山ならではの一流の名前の付け方なのでしょうね。
後に凹凸窠は詩仙堂と呼ばれるようになるわけですが、その由来となったのが、凹凸窠にある“詩仙の間”です。
丈山は三十六歌仙(平安時代の和歌の名人36人の総称)にならって、李白や杜甫など、中国の漢、晋、唐、宋の詩家36人を選び、その肖像を狩野派を代表する天才絵師、狩野探幽(かのうたんゆう)に描かせました。そして、それぞれの肖像画の上部に各詩人の漢詩を丈山自らが隷書体で書いて、詩仙の間の四方の壁に掲げたのです。その詩仙の間が、いつしか、凹凸窠の代名詞となり、“詩仙堂”と呼ばれるようになったのです。
詩家36人の選定には、儒学者の林羅山(はやし らざん)も加わって行われたのですが、両者の意見が合わないことも度々あったようで、その選定にはかなり苦心したと言われています。丈山は中国の文化人に強い憧れを持っていて、寝食を忘れるほどに漢詩や隷書を愉しんだとされるだけに、その知識と思い入れは並々ならぬものがあったでしょうから、学者相手であっても、対等に意見を交わしたのでしょうね。
丈山は庭造りの名手でもあった
丈山は漢詩を作る才能にも長けていて、その出来映えは李白や杜甫にも劣らず、「日東の李杜(にっとうのりと)」とも呼ばれるほどでしたが、丈山は漢詩を作るだけではなく、庭造りの名手としても知られていました。
京都には丈山が手掛けた庭が幾つか残されていて(下京区にある東本願寺の渉成園(しょうせいえん)もそのひとつ)、詩仙堂の庭園も丈山自らが手掛けた庭園です。
庭に“ししおどし”を最初に取り入れた人物
丈山好みの唐様庭園には四季折々の花々や木が植えられていて、季節ごとにそれぞれの趣を楽しませてくれますが、時折、しじまを破って、コーンと竹が石を打ちつける音が響いてきます。それは、“ししおどし(僧都(そうず)とも言う)”の音です。ししおどしを最初に庭に取り入れたのは、丈山だと言われていて、丈山が手掛けた庭には必ずししおどしが設置されています。
本来、ししおどしは、田畑を荒らすイノシシやシカを追い払うためのものでしたが、丈山はそういう機能的な意味を鹿おどし求めたのではなく、静寂の中で響くししおどしの音を心の慰めにするためだったのではないでしょうか…。
疲れた心を癒やしてくれる草庵
入り口に立つ「小有洞(しょうゆうどう)の門」、参道を上りつめたところに立つ「老梅洞(ろうばいどう)の門」、「詩仙の間」、読書室の「至楽巣(しらくそう)」、堂上の楼「嘨月楼(しょうげつどう)」、井戸の「膏肓泉(こうこうせん)」、侍童の間「躍淵軒(やくえんけん)」、滝の「洗蒙瀑(せんもうばく)」、池の「流葉洦(りょうようはく)」、庭に百の花を配した「百花塢(ひゃっかのう)」…。丈山はこれら10の美しい光景を「凹凸窠の十境」と名付け、愛でたそうです。今も詩仙堂は訪れた人たちの疲れた心を癒やしてくれます。
詩仙堂:京都市左京区一乗寺門口町27番地 TEL : 075-781-2954
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