京都・三条大橋の東詰、京阪電鉄の三条駅・5番出口を出たところに、ちょっと風変わりな銅像があります。銅像というと立ち姿であることがほとんどですが、この銅像は正座をして、両手を前につけ、顔を上げ、じっと前を見詰めるかのような姿をしているのです。
この銅像の人物の名は「高山彦九郎(たかやま ひこくろう)」。この人は誰しもが知っている人物ではないかもしれませんが、幕末の志士たちに大きな影響を及ぼした人物だと言われています。それにしても、どうしてこの人の銅像はこんな姿をしているのでしょう? 今回は江戸時代の思想家・高山彦九郎の話をしましょう。
この人、土下座してる!?
巨大な彦九郎の銅像は、その姿から、通称“土下座”と呼ばれ、京都の若い人たちの間では待ち合わせ場所のひとつとして親しまれています。例えば、飲み会などの待ち合わせをする時は、「6時に土下座の前で」と言ったりします。少し前に、とあるドラマで土下座がブームになったこともあり、その影響もあるのでしょうが、確かに、この銅像は土下座をしているように見えます。でも、土下座をしているわけではないのです。
台座を見るとそこには『京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって礼拝した』と記されています。つまり、この銅像の姿はごめんなさいの意味の土下座ではなく、礼儀正しく拝んでいる姿だったのです。
読書好きだった彦九郎
1747(延享4)年、高山彦九郎は上野国新田郡細谷村(こうずけこく にったぐん ほそやむら:現在の群馬県太田市)の豪農の二男として生まれました。彦九郎は幼い頃から本が好きで、たくさんの本を読んでいましたが、そんな彼が13歳の時に『太平記』(南北朝時代を舞台に描かれた軍記物語。作者不詳)に出会い、高山家の先祖が「新田義貞(にった よしさだ)」の家臣であったことを知ったのです。新田義貞とは、後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を倒幕した人物で、彦九郎の祖先である高山定重(たかやま さだしげ)は新田義貞が率いる「新田十六騎」のひとりに数えられた人物です。
『太平記』には、南朝と北朝の抗争の末、後醍醐天皇の南朝が敗れ、新田義貞ら南朝の臣たちは次々と倒されていく様子が描かれていますが、それを知った彦九郞は、帝に尽くした忠臣が、どうしてこうも倒されねばならないのかと憤慨し、このことが切っ掛けとなって、彦九郞は勤皇思想に目覚めたのです。
そして、1764(宝暦14)年3月、彦九郞が18歳の時に置き手紙を残し、尊王の志を抱いて、京都へ向かったのでした。
三条大橋の袂で突然、行った奇行
京の玄関口である三条大橋に着くと彦九郞は通りすがりの人に皇居のある方向を聞き、その方向に向かって地面にひれ伏すと、突然、号泣し、「我は草莽(そうもう)の臣、高山彦九郎でございます」と何度も叫んだのでした。(草莽の臣=自分をへりくだっていう言い回しで、民間人でありながらも、国家の一大事には国のために行動する人のこと)
この時の彦九郎の異様な様子に、彦九郎の周りには野次馬で人だかりになったそうですが、今、三条大橋の東詰にある土下座をしているような彦九郎の銅像は、この時の彦九郎の姿を再現したものなのです。銅像を見る限りでは、とても18歳の青年には見えない風貌をしていますが、当時の様子を想像してみると、無念で泣き叫ぶ彦九郎の姿が浮かんできます。
彦九郎は荒れ果てた御所の姿を目の当たりにし、涙して、天皇の復権のために人生を捧げることを誓ったと言います。その後、彦九郎は全国を渡り歩きながら尊王論を説き、最終的には蝦夷の松前まで足をのばしたそうです。
彦九郎にまつわるエピソード
彦九郎は他にも興味深いエピソードを残しています。
京都市の北西に位置する衣笠。この地域には金閣寺や竜安寺、仁和寺など人気の寺院がありますが、その一角に「等持院(とうじいん)」という足利家の菩提寺があります。
その等持院の境内からは、「ビシッ、ビシッ」と何かを叩く音と、「この国賊が!」という男の叫び声が何度も聞こえてきたと言います。それは彦九郎が境内にある足利尊氏(あしかが たかうじ)の墓に向かって罵る声と、罪人への拷問で使う“箒尻(ほうきじり)”と呼ばれる長さ約60センチの竹製の刑具で墓を叩く音だったのです。
高山家からすれば、尊氏は先祖の敵。そして、後醍醐天皇をないがしろにした尊氏がどうしても許せなかったのでしょう。南朝に対する尊氏の罪状をひとつ言っては、墓を箒尻で叩く…。その叩く回数は300回に及んだと言われています。尊氏に対する異様なまでの憎悪…。彦九郎にとっては尊氏は極悪人としか思えなかったのでしょう。
また、こんなエピソードもあります。1791(寛政3)年、京都を訪れた彦九郎は偶然、鴨川で縁起が良いとされる、甲羅に苔が生えた亀、“緑毛亀(りょくもうのかめ)”を捕らえ、朝廷に献上しました。その折りに、彦九郎は時の天皇、第119代・光格天皇(こうかくてんのう)に会う機会が与えられたのです。その時、彦九郎は天皇から「これは吉祥である」と、言葉を賜ったそうです。彦九郎は天にも昇る心地だったのでしょう。この時の気持ちを歌に詠んでいます。
「我を我と しろしめすかや すべらぎの 玉のみ声の かかる嬉しさ」(自分のことを陛下に知ってもらえて大変うれしい)
このような思いがけないことがあって、さらに彦九郎の尊王の志は強固なものへとなっていきました。
謎の死を遂げた彦九郎が残したものは?
その後、彦九郎は自らの思想を高めるために、九州に赴きますが、この頃から彦九郎の勤皇思想は幕府から危険視されるようになり、危険を感じた彦九郎は久留米の友人宅に身を隠していました。ところが、1793(寛政5)年6月27日に、自ら自分の腹に刀を突き刺したのです。彦九郎は苦しむ中で辞世の句として、「朽ち果てて 身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを」と詠みます。そして、京都の方角に体を向けて、柏手を打ち、そのままの姿勢で座り続けました。この時、事を聞きつけた役人が駆けつけ、自刃の理由を聞くと、彦九郎はただひと言、「狂気也(きょうきなり)」と答えたと言われています。
日が変わり、6月28日、午前4時頃に高山彦九郎はその生涯を閉じました。享年46歳。
彦九郎は何に悲観し、何を失望したのか…、その自刃の本当の理由は今も謎のままです。ただ、彦九郎が全国に広めた尊王論は、吉田松陰をはじめ、維新というとてつもない一大事業を成し遂げる勤皇の志士たちに、多大な影響を与えることになったことは確かです。
三条大橋の袂にひれ伏す彦九郎の銅像は、国の一大事があれば、いつでも天皇のために立ち向かうぞという意気込みを持って、今も京都御所を見詰めているのかもしれませんね。
高山彦九郎像:京都市東山区大橋町
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