あまり知られていないことのようですが、かつての京都には、大仏が2体ありました。そのひとつは、方広寺の大仏(※方広寺の大仏については「不運に見舞われ続けられた大仏」をご覧ください)。そして、もうひとつは、東福寺(とうふくじ)の大仏です。東福寺には、大仏が存在した証拠となる“あるもの”が残されています。今回は明治まで実際にあった東福寺の大仏の話をしましょう。
奈良県の東大寺と興福寺を模範とした東福寺
日本最古にして最大級の伽藍と言われる、東山の東福寺。東福寺はひとつひとつの伽藍が大きく、その配置は、北に向かって、南から勅使門、三門、本堂(仏殿)、方丈の順に一直線に並んでいます。これは、禅宗寺院の特徴で、南禅寺や建仁寺なども同じ配置になっています。
東福寺は、摂政・九条道家(くじょう みちいえ)によって造営されましたが、その造営にあたって、“洪基(こうき)を東大に亜(つ)ぎ、盛業を興福に取る”という理念がありました。これは、奈良の最大の寺院である東大寺と、最も隆盛した興福寺を模範とするということを表したもので、その東大寺の「東」と、興福寺の「福」の1字ずつを取って、「東福寺」という寺名になったのです。
九条道家の思いが生んだ大仏
1236(嘉禎2)年に伽藍の建立が始まりますが、この時から既に、九条道家は、東大寺の大仏のような大きな仏像を造ろうと考えていたようです。東大寺を模範としていたわけですから、道家が東福寺にも大仏をと考えるのは、当然のことでしょうね。その後、すぐに着工され、1243(寛元元)年に大仏は完成しました。因みに、この同じ年の6月13日には、北条泰時が造営した鎌倉の大仏の開眼供養が行われています。奇しくも同じ年に京都と鎌倉に大仏が建立されたというわけです。
大仏の存在を示す2つの証拠
東福寺の大仏は、1881(明治14)年12月16日の午後8時半頃に、本堂と法堂(はっとう)が火災に遭い、その時に大仏は焼失してしまい、現在の東福寺には大仏はありませんが、大仏が確かに存在したという証拠がその本堂と法堂に残されています。
その証拠は2つあるのですが、そのひとつは、本堂の扁額(へんがく:建物や寺社などの高い位置に揚げられた額)に「毘盧寶殿(びるほうでん)」と記されていることです。これは、本堂が盧舎那仏(るしゃなぶつ)、つまり、大仏が安置されていた建物であることを示しています。
そして、もうひとつの証拠は、火災に遭ったときに、奇跡的に焼け残った“大仏の左手”です。手の形のジェスチャーで何かの意味を表すことを、仏教用語で「印相(いんそう)」と言いますが、中指を少し曲げているこの左手は、人々の願いを叶えるという意味の“与願印(よがんいん)”の形をしているので、大仏の左手であることは確かなようです。
手の大きさは2メートルほどあり、それだけを見ると何やらアート的なオブジェにも思えて、少し異様な感じがします。この手の大きさから推定すると、東福寺の大仏の高さは15メートルもあったようです。東大寺の大仏が高さ約15メートル、鎌倉の大仏の高さが約13メートルであることからすると、東福寺の大仏は他の大仏と比べても、遜色のない立派な姿をしていたようです。
紅葉に包まれる東福寺
東福寺は秋になると、境内一面がモミジやカエデで真っ赤に染まります。その中でも、紅葉に浮かぶように架けられている「通天橋(つうてんきょう)」からの眺めは筆舌に尽くしがたい美しさです。
11月1日からは、恒例の「看楓(かんぷう)特別拝観」が行われます。通常拝観できる通天橋や方丈庭園のほかに、国宝に指定されている龍吟庵の方丈や、重森三玲作庭の庭なども特別に観ることができますので、この時期に合わせて、大仏存在の生き証人である“大仏の左手”をご覧になってはいかがでしょうか。
東福寺:京都市東山区本町15丁目778 TEL : 075-561-0087
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