京都人は古き伝統を頑なに守る気質がある反面、新しいものを取り入れることに積極的な面も持っています。新しい試みに取り入れて、今日は一風、変わった京の名勝として多くの人に親しまれている「インクライン」の話をしましょう。
インクラインとは?
京都にあってカタカナの名称とは些か奇妙な感じがしますが、「インクライン」とは“傾斜鉄道”のことです。歌舞伎狂言の「楼門五三桐(さんもん ごさんの きり)」に登場する天下の大泥棒、石川五右衛門の名セリフ「絶景かな、絶景かな」で有名な洛東の南禅寺の境内に、水路閣という水路橋があります。
水路閣はアーチ型をした洋風のレンガ造りの建築物で、その上部には今でも琵琶湖からの水が流れていますが、その疎水に沿った先に「インクライン」があります。
北西に延びるまっすぐの長い坂道に線路だけが敷かれている風景は一抹の寂しさを感じないでもないですが、春の頃はインクラインの両脇に植えられた華やかな桜を観る人たちで賑わいます。
大事業の産物、インクライン
インクラインは1890(明治23)年に、京都に琵琶湖の水を引く目的で建設された琵琶湖疎水の一部分として造られました。琵琶湖疎水は水力で電気を作り、新しい工場を建て、舟を利用した物資の行き来を盛んにするための京都人念願の大事業でした。
この当時の大規模な工事は外国の技術と技術者が中心となって行われるのが普通でしたが、琵琶湖疎水は日本人の知識と技術だけで作られたのです。しかし、初めての試みばかりで、琵琶湖疎水の建設には難関が多く、その中でも蹴上(けあげ)から九条山への長い坂が大きな問題として立ちはだかったのです。長さ582メートル、高低差36メートルの坂道は、相当な急勾配な道で、そのままここに水路を造ったところで、到底、その水路を舟が往来することはできない…。では、どうすべきか…。そんな窮地に考え出されたのが、このインクラインだったのです。
インクラインは三十石船を台車に載せて、そのまま線路上を蹴上と九条山の間を行き来させるという、画期的なものでした。この奇抜なアイデアは、当時21歳だった田邊朔朗(たなべさくろう)という土木技師によるものだったそうですが、若いが故の固定観念にとらわれない自由な発想から生まれたインクラインが、琵琶湖と淀川を結び、その後の京都の近代化に大きく貢献することになったのです。
現在のインクラインには、台車に載せられた舟と線路が残されています。120年ほど前にその場所で行われた大事業に思いを馳せながら、インクラインの四季折々の風景に身を置けば、また違った京都の風情を感じることができるかも知れません。
インクライン:京都市左京区粟田口山下町~南禅寺草川町
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