京都市の北西に位置する標高428メートルの高雄山(たかおやま)。その東南の麓を流れる清滝川に架かる高雄橋から400段ほどの急な石段を上った山腹に、密教美術の宝庫として知られる高野山真言宗の古刹があります。今回は平安仏教発祥の地に建つ「神護寺(じんごじ)」の話をしましょう。
2つの寺院が合併してできた寺院
京都の紅葉の名所として知られる神護寺。正式には「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と言います。京都市街の北西には高雄山、槙尾山(まきのおやま)、栂尾山(とがのおやま)の3つの山が並び、高雄山に神護寺、槙尾山に西明寺(さいみょうじ)、栂尾山に高山寺(こうざんじ:世界文化遺産)があることから、この3つの寺院を合わせて『洛西の三尾(らくさいのさんび)』とも称されています。
創建の詳細ははっきりとした記録が残されていないために不明ですが、奈良時代の781(天応1)年に、平安遷都の提唱者である高級官僚・和気清麻呂(わけのきよまろ)が、国家安泰を願って河内(現・大阪。但し、山背説もあり。)に建立した「神願寺(しんがんじ)」と、ほぼ同時期に和気氏の氏寺として創建された「高雄山寺(たかおさんじ)」の2つの寺院が824(天長1)年に合併したことによってできた寺院が神護寺だと言われています。
前身寺院のひとつである「神願寺」は、和気清麻呂が国東半島(くにさきはんとう:現・大分県)にある宇佐八幡宮に鎮座する八幡大菩薩から「一切経を写し、仏像を作り、最勝王経(さいしょうおうきょう)を読誦し、一伽藍を建て、万代安寧を祈願せよ」というお告げを受けたことにより建立された寺院だと言われています。寺名もこのお告げに由来しているようです。
そして、もうひとつの前身寺院である「高雄山寺」は、今ある神護寺の地にもともと古くからあった寺院です。洛北の鷹峯(たかみね)に鎮座していた愛宕権現(あたごごんげん:愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神)を愛宕山に移した際に、「愛宕五寺」または「愛宕五坊」と呼ばれる5つの山岳寺院が建立され、そのうちのひとつが高雄山寺なのです。因みに他の4つの寺院は月輪寺、日輪寺、伝法寺、白雲寺で、現存しているのは月輪寺と高雄山寺改め神護寺だけです。
最澄と空海の交流の舞台
高雄山寺の建立時期に関する明確な記録は残っていませんが、歴史上にその寺名が初めて記されたのは、802(延暦21)年のことで、この時の和気氏の当主・和気弘世(清麻呂の長男)が天台宗の開祖・伝教大師 最澄を招請し、伯母の和気広虫(わけのひろむし)の三周忌を営む法華会(ほっけえ)が盛大に執り行われたとあります。
また、809(大同4)年には真言宗の開祖・弘法大師 空海が住職として入り、812(弘仁3)年にはかねてより最澄から要請のあった灌頂(かんじょう:密教に於ける重要な儀式。法を授けることで一人前の僧として処遇される)を行いました。
灌頂は11月と12月、そして翌年の3月の3回行われ、その時、空海の直筆によって灌頂を受けた者(最澄、和気真綱(わけのまつな)、美濃種人など)の名前が書かれた名簿「灌頂暦名(かんじょうれきめい)」が今も残されており、国宝に指定されています。
空海はこのように高雄山寺で鎮護国家の密教修法を行ったことから、嵯峨天皇の信頼を得て、高雄山寺を譲り受けることになったのです。
神護寺の誕生と衰退
一方、清麻呂が創建した神願寺は立地が低湿の砂地だったため、密教壇場には相応しくないということで、和気真綱・仲世(なかよ)兄弟等が高雄山寺と寺地を交換することを願ったところ、824(天長1)年に移建が許され、その時に寺号を「八幡神の加護により国家鎮護を祈念する真言の寺」という意味から、「神護国祚真言寺」と改められました。空海を初代住職とする神護寺の誕生です。
そして、835(承和2)年。空海が62歳で高野山に入ると、空海の十大弟子のひとりである真済(しんぜい)が後を継ぎ、伽藍を整備して、嵯峨天皇の皇子・仁明天(にんみょうてんのう)の御願によって宝塔を建立し、神護寺は鎮護国家の道場となりました。
ところが、それから300年ほど後平安末期の頃に火災に見舞われ、神護寺は衰退してしまいます。それは惨憺たるものだったようで、その有様を示す記述が残されています。
『久しく修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧に交はり、扉は風に倒れて落ち葉の下に朽ち、甍は雨露におかされて仏壇更にあらはなり、住持の僧もなければ、稀にさし入るものとては、日月の光ばかりなり』
ところが、その荒廃ぶりに心痛め、再興を決意した人物が現れました。その人物とは空海の信仰者であった文覚(もんがく)上人です。
神護寺の再興に尽力した僧侶・文覚
文覚は19歳で出家し、真言宗の僧侶になりましたが、俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、出家するまでは北面の武士(11世紀末に白河法皇が創設した院の直属軍で、院の北面に詰め、身辺警護を行う武士)として鳥羽天皇の皇女・統子内親王(むねこないしんのう)に仕えていました。
1168(仁安3)年に神護寺を訪れた文覚は、早速、本尊を安置する薬師堂や納涼殿、不動堂などを再建しましたが、なかなか復興は思いように進みませんでした。そこで文覚は思い切って後白河法皇に神護寺の再興を強訴したところ、法皇に会ってもらえず、それに対して気の荒い文覚が乱暴な態度に出たため、それが法皇の逆鱗に触れることになり、文覚は伊豆に流されてしまいました。その伊豆で出会った人物が、同じく配流の身になっていた源氏の嫡男、源頼朝です。文覚と頼朝は意気投合し、親交を深めました。
そして、1180(治承4)年。頼朝は伊豆で挙兵して平氏を滅ぼし、権力を掌握すると、文覚は頼朝や後白河法皇の庇護を受ける中、再び、神護寺の再興に尽力しました。
その後、1205(元久2)年に文覚は後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられ、対馬(現:長崎)へ流される途中、その生涯を終えてしまいますが、文覚の弟子である上覚(じょうかく)が師の遺旨を継いで念願の神護寺再興は果たされたのです。
神護寺の魅力〜数多くの寺宝
清滝川に架かる朱色の高雄橋から続く長い石段。息を切らしてその石段を登り切った先にある堂々とした楼門をくぐると、そこに境内が広がっています。山の中腹という立地場所にも関わらず境内は平らに整地され、書院、鐘楼、金堂、明王堂、五大堂、毘沙門堂、大師堂、多宝塔、地蔵院など、多くの伽藍が建ち並んでいます。そして、神護寺の魅力のひとつが、寺が所有する多くの寺宝です。
神護寺の寺宝は、ご本尊の薬師如来立像(やくしにょらいりつぞう:国宝)や五大虚空蔵菩薩坐像(ごだいこくぞうぼさつざぞう:国宝)、毘沙門天立像(びしゃもんてんりつぞう:重要文化財)など、その数は国宝が17点、重要文化財においてはなんと2,833点も所有しています。
その中でもとりわけ有名なのが、源頼朝(ふじわらのよりとも)像・平重盛(たいらのしげもり)像・藤原光能(ふじわらのみつよし)像の「神護寺三像(じんごじさんぞう)」と呼ばれる三幅の肖像画です。特に源頼朝像は歴史の教科書などにしばしば登場する有名な肖像画で、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
謎の多い三幅の肖像画
この「神護寺三像」の作者は12世紀末の似絵(にせえ)の名手・藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)だとされてきましたが、最近の研究では、三像の成立した時期から考えると隆信によって描かれたものではなく、隆信が描いた原画をもとに別人によって作成されたものだとも言われています。また、頼朝像・重盛像・光能像は実はそれぞれ足利直義(あしかがただよし)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・足利義詮(あしかがよしあきら)の肖像画なのではないかという興味深い説も最近ではあるようです。
このように謎の多い三幅の肖像画ですが、いずれにしても「神護寺三像」は日本美術史における肖像画の最高傑作のひとつであることには変わりありません。
国宝に指定されている梵鐘
神護寺には仏像や仏画以外にも有名な国宝があります。それは“鐘”です。楼門を入ってすぐの書院の奥に、応仁の乱で焼失したために1623(元和9)年に再建された重厚な鐘楼がありますが、その楼上に国宝に指定されている梵鐘が架けられています。
高さ150cm、直径80cm、重量が900kgもあるその立派な銅製の梵鐘は「銘の神護寺」と呼ばれ、平等院の鐘(形の平等院)、三井寺の鐘(音の三井寺)と並んで「日本三名鐘」のひとつに数えられています。
875(貞観17)年に鋳造されたこの梵鐘が「銘の神護寺」と呼ばれる所以は、鐘の表面に長文の銘文が施されているためです。この銘文は、詞を学者の橘広相(たちばなのひろみ)、銘を菅原道真の父で文人の菅原是善(すがわらのこれよし)が作り、歌人で能書家の藤原敏行(ふじわらのとしゆき)が字を書いたとされており、当代一流の文化人が3人関わっていることから「三絶の鐘」とも称せられています。日本三名鐘のひとつと言われれば、是非、一度は見ておきたいところですが、実は、この梵鐘はひびが入っていることがわかり、現在は拝観できないそうです。ちょっと残念ですね。
新緑の頃の青もみじ、そして、秋の頃、燃えるように真っ赤に色づく紅葉が美しい神護寺は、清水寺や金閣寺といったように一般的には名高いお寺ではありませんが、日本の仏教界を代表する最澄と空海という2人の傑僧が交流したという点に於いて意義あるお寺です。神護寺の歴史・文化に心を寄せて、境内を散策してみては如何でしょう。
神護寺:京都市右京区梅ヶ畑高雄町5 TEL : 075-861-1769
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