東福寺 ~脈々と受け継がれてきた禅文化に触れる

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東山三十六峯の南端、月輪山(つきのわさん)の麓に京都で最も大きな禅寺、東福寺(とうふくじ)があります。

25の塔頭がある20万平方メートルもの広大な寺域には、約2000本にも及ぶ楓が植えられており、初夏には若葉の緑に包まれ、盛秋には赤一色に染め上げ、訪れる者の心を癒やします。今回は日本最古にして最大級の伽藍を有する「東福寺」の話をしましょう。

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京都五山第4位の禅宗寺院

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臨済宗東福寺派の大本山である東福寺は、摂政関白・九条道家(くじょう みちいえ)の『浩基を東大に亜ぎ、盛業を興福に取る』との発願によって、鎌倉時代の1236(嘉禎2)年に創建されました。この発願には“東大”と“興福”とありますが、これらは世界文化遺産にも登録されている奈良の東大寺と興福寺のことです。当時、最大の寺院とされたのが東大寺であり、最も隆盛を極めた寺院が興福寺だと言われていました。東福寺はこの2つの寺院に匹敵する大寺院という意味で、それぞれから一字を取って「東福寺」と名付けられたのです。

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創建から7年後、九条道家は、中国・宗で修行を終えて帰国していた駿河国(現:静岡県)出身の禅僧・円爾(えんに:聖一国師【しょういちこくし】)を初代住職に迎え、当初は天台宗・真言宗・禅宗の三宗兼学の道場となり、道家の死後、1255(建長7)年に七堂伽藍(禅宗の場合は、山門・仏殿・法堂・庫裡・僧堂・浴室・東司の7つの建築物を指すことが多いが、宗派などにより異なる場合がある。)が完成し、禅宗の寺院となりました。因みに東福寺は鎌倉時代末期に制定された京都の禅宗寺院の寺格制度「京都五山」の第4位(寺格順位=別格:南禅寺  1位:天龍寺  2位:相国寺  3位:建仁寺  5位:万寿寺)に格付けされていますが、今日ではこの格付けはその背景に当時、権力を持つ足利氏の政治・政略的な思惑があったとされていて、格付けとしての信頼性は低いものと考えられています。

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その後、三度の相次ぐ火災により伽藍の多くが焼失してしまいますが、鎌倉幕府、九条家、足利家、徳川家などの援助により再建されました。ところが不運なことに、1881(明治14)年に起きた火災により、仏殿や法堂、方丈などが再び焼けてしまいました。現在の仏殿、法堂、方丈などは明治以降に再建されたものですが、焼けなかった三門(国宝)や禅堂、浴室などは中世の頃の姿のまま、今も残されています。

修行僧が寝食した座禅道場

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境内には重厚な伽藍が禅宗様式に従って配置されています。南から北に向かって思遠池(しおんち)、三門、本堂、方丈が一直線上に並び、記録によると創建時には三門の東に経蔵、西に鐘楼が置かれていました。そして、室町時代前期に建立された禅堂、浴室、東司(とうす)の3つの建物は「三黙堂(さんもくどう)」と呼ばれ、禅の規律精神が特に生かされていたと言われています。

現在の禅堂は1347(正平2)年に再建されました。現存する禅堂としては国内では最古とされ、その規模(南北に42メートル、東西に22メートル)は国内最大です。

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禅堂とは、言わば“座禅道場”のことで、100人もの修行僧がこの禅堂で寝食を共にしていました。“人は必要以上のものを望むべきではなく、満足することが大切である”という意味のことわざに「起きて半畳寝て一畳」がありますが、まさにその文字通り、修行僧たちは日常生活をわずか畳一畳のスペースで行わなければなりませんでした。座禅を組み、食事を摂り、睡眠する・・・。限られた空間で大勢の人間が円滑な日々を営むためには、一人ひとりが一糸乱れることのない、規則正しい行いをする必要がありました。それを実践した修行僧たちの戒律の厳しい生活は、今も集団生活の模範とされています。

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厳格な作法に基づいた入浴

現存する日本最古の浴室は奈良・東大寺の大湯屋(おおゆや)ですが、それに次いで古いのが1459(長禄3)年に建てられた東福寺の浴室です。ただ、浴室と言っても、浴槽はなく、蒸気で体の垢をふやかして落とす“蒸し風呂”だったようです。

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当時、水はとても貴重なものとして考えられていました。浴槽に湯を張り、100人の人間が体を洗うために使用する水は相当な量になり、同時に水を沸かすための薪の量も膨大なものとなることから、それらを節約する方法として蒸し風呂が考え出されました。今で言えば、サウナやスチームバスのようなものですが、その時代にあっては斬新で、画期的なシステムだったことでしょう。

入浴できる日は毎月、4と9のつく日と決められていて、一度に10人ほどの修行僧がお経を唱えながら入り、線香が1本燃え尽きるまでに済まさなければならなかったそうです。入浴時も禅の規律に則した厳格な作法に基づかなければならなかっただけに、修行僧たちにとっては入浴とは言え、心身の疲れを癒やすことにはならなかったかもしれませんね。

用を足すのも修行のひとつ

三門の西側には「東司(とうす)」と呼ばれる建物があります。「東司」と言っても何のことかピンと来ないと思いますが、「東司」とはいわゆる“トイレ(厠:かわや)”なのです。「東司」とは東に位置する便所という意味で、本来ならば境内の東にあるべきなのですが、何故か東福寺の東司は境内の西側にあります。そのために「西浄(せいちん)」とも呼ばれていました。また、トイレのことを「雪隠(せっちん)」と呼ぶことはよく知られていることですが、東福寺の東司には一度に多くの修行僧が用を足すことから「百雪隠(ひゃくせっちん)」という別名もあるようです。

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間口約15メートル、奥行き約30メートル、高さ10メートルほどの建物は現存する東司としては最大最古で、禅堂や浴室と同様に国の重要文化財に指定されています。

建物の内部の床面は土間になっており、その南北方向に2列20個ほどの円い穴が開けられ、そこに陶器で作られた便壷が埋め込まれていました。列の右側が大便用、左側が小便用で、今は跡形もありませんが、当時はそれぞれに仕切りが施されていたようです。

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禅宗では、用を足すことも修行のひとつと考えられていたため、用を足すときにもお経を唱えなければならなかったそうですが、その作法にも細かい手順がありました。

  1. 厠の前で法衣を脱ぎ、竿に掛けた後、土団子を用意する。
  2. 桶に水を汲み、その桶を右手に持って、左手で扉を開ける。
  3. 草履をわらじに履き替え、便壷に跨がって静かに、汚さず用を足す。
  4. 大便の場合は長さ65センチほどの角のある木の棒でお尻の汚れを拭い取り、木の棒を水の入った筒に入れる。
  5. 桶の水を左手に受けて、水を散らさないように便壷を洗う。
  6. 手洗い場に移動し、まず水で3度洗う。続けて灰で3度、土団子で3度、サイカチ(梍:マメ科の落葉低木。果実にはサポニンの成分が含まれ、古くから洗剤の代用として使われていた)で3度洗い、最後にもう一度、水と湯で洗う。
  7. 右手に桶を持ち、草履に履き替え、桶を所定の位置に戻して、法衣を着用し正す。

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このように、一口に用を足すと言っても、これだけの手順があったのです。通常時ならまだしも、お腹の具合が悪いときは大変だったのでは?と心配になりますが、そういう非常事態であっても修行に打ち込んだ修行僧は、作法を守り、冷静に用を足したことでしょうね。因みに修行僧たちの排出物は、境内にある畠の肥料として使われたり、周辺の農家に売ることで寺の収入源のひとつになっていたそうです。

桜の木が1本もない!?

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京都でも有数の紅葉の名所として知られる東福寺。秋深まる頃、臥雲橋(がうんきょう)や通天橋(つうてんきょう)から眺める赤一色に染まる光景は、ため息が出るほど見事なものです。ところが、これほど数多くの楓がある境内には、不思議なことに桜の木は1本もないのです。実はもともと東福寺の境内には多くの桜の木があったそうです…。

室町時代の頃、東福寺に吉山明兆(きっさんみんちょう)という名の画僧がいました。ある時、第4代将軍足利義持(あしかがよしもち)が明兆に「絵を描いてくれた褒美として、何か与えよう。望みは何だ?」と尋ねました。すると明兆は「境内に桜があれば、遊興の地となり、大勢の人が訪れ、修行の妨げになります。どうか境内にあるすべての桜を禁じて下さい」と答えたのです。その言葉に感動した義持は、東福寺の境内にある桜をすべて切り倒させ、以後、桜の木は植えられることなく、今に至っています。

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東福寺は見どころの多い寺院ですが、単に観るだけではなく、古来より脈々と受け継がれてきた、日本人の根底にある勤勉さが息づく禅文化に触れることができる寺院なのです。

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東福寺:京都市東山区本町15-778 TEL : 075-561-0087

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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