本当は京都に原爆が投下されるはずだった!

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2015(平成27)年8月30日、蒸気機関車の保存展示施設「梅小路蒸気機関車館(うめこうじじょうききかんしゃかん)」が43年の歴史に幕を下ろしました。この施設の中で、特に人気があったのが、“ターンテーブル”と呼ばれる転車台です。

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ターンテーブルとは蒸気機関車の保守点検や修理などを行う際に、目的に合った車庫に入れるためのもので、約15トンほどもある蒸気機関車の巨体を乗せてゆっくりと回る姿は圧巻で、その様子を間近で見ることができる鉄道ファン、ことにSL好きの人にとってはたまらないものだったようです。

ところが、このターンテーブルは、米軍の原子爆弾投下の目標にされていたと言われているのです。 今回は、原爆投下の目標都市にされた京都の話をしましょう。

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原子爆弾を投下する米国の目的とは?

第二次世界大戦期において日本の各都市に対する無差別爆撃が本格化しだしたのは1944(昭和19)年の末からで、特に米軍による1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲、そして,同年3月13日の大阪大空襲によって、日本の中枢機能は壊滅的な大打撃を受けました。その後も、東京や大阪だけではなく、横浜、千葉、日立、浜松、四日市、姫路、呉、福岡などにも爆撃が行われ、多くの日本国民の命が奪われました。そして、米国はなかなか降伏をしない日本に対して、原子爆弾の投入を決断したのです。

米国が日本に原子爆弾を投下した目的は、“戦争終結を早めるため”と言われることがしばしばありますが、真の目的は米国が戦後の世界戦略を進めるにあたって、最新兵器である原子爆弾そのものの破壊力を知ることにありました、そのためには実際に人が生活する都市に原子爆弾を落とす必要があったのです。

1942(昭和17)年8月に米国は原子爆弾の製造に着手するための、いわゆる「マンハッタン計画」を発足させ、1944(昭和19)年9月には、原子爆弾を日本に対して使用することを決定しました。そして、1945(昭和20)年4月に、東京湾・川崎・横浜・名古屋・大阪・神戸・京都・広島・呉・山口・下関・八幡・小倉・福岡・長崎・佐世保・熊本が原子爆弾投下目標の地域として選定され、5月になって投下目標地は、京都・広島・新潟に絞られました。しかし、6月になって京都は投下目標地から除外されることになったです。

投下目標地として有力候補だったにも拘わらず、最終的に候補から除外された京都。どうして京都が原子爆弾投下の対象とされたのでしょうか。そして、何故、直前になって京都が候補から外されたのでしょうか。

京都が原爆の投下都市に選択された理由

米国が掲げた原子爆弾投下目標の選別基準は次の3項目でした。

  1. 直径3マイル(約4.8km)の円が描ける市街地を持つ都市であること。
  2. 原子爆弾の爆発によって生じる爆風の効果が最大限発揮される都市であること。
  3. 予定されている8月投下の時点で、まだ破壊されていない都市であること。

そして、米国はこの3つの基準をベースにして、理想的な投下目標を次のように取り決めました。

  1. 人口が100万人の都市であること。
  2. 市街地の広さが、東西2.5マイル、南北4マイルあり、人口密集地が広いこと。
  3. 戦時下で罹災した産業が移転してくる都市であること。
  4. 日本人にとって宗教的意義を持った都市であること。(破壊することで心理的ショックを与え、抗戦意欲を喪失させるため)
  5. 爆風が最大の効果を出すために、三方を山に囲まれた盆地であること。
  6. 知識人が多く住んでいること。(その人たちが原子爆弾の脅威を認識し、日本政府に早期降伏を働きかける期待ができるため)

これらによって、数ある投下目標の地域の中から京都と広島がクローズアップされ、京都が投下目標の第1候補とされたのです。1945(昭和20)年5月12日付の米国の極秘文書「目標検討委員会第2回会議の要約」には、京都について次のように書かれています。

『京都は人口100万の都市工業地域であり、かつての日本の首都である。他の地域が破壊されていくにつれて、多くの人々や産業が京都へ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、その住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的大きいという利点がある』

この文章の中で特に興味深いのは後半の「京都は日本にとって知的中心地であり~正しく認識する可能性が比較的大きいという利点がある」という部分です。これは原子爆弾が小惑星の衝突や天変地異の類いではなく、米国が作った新型爆弾であるという認識が出来る知的レベルが京都に住む人たちにはあると米国は分析しているわけですが、この文章からしても、原子爆弾投下は戦争の終結を早めるためのものではなく、その破壊力を世界に知らしめるためだったことが明らかであることを示しています。

また、この極秘文章には書かれていないのですが、京都市街が爆撃による甚大な被害を被っていないという点も京都が原子爆弾投下の第一目標にされた大きな要因だと言われています。米国は原子爆弾を投下することによって、都市がどれほど破壊されるかという効果を知りたかったわけで、そのためには爆撃による被害がない都市を選択するのが理想だったのです。

京都にも空襲はあった!

しかし、京都は爆撃が一度もなかった都市ではありませんでした。“京都には貴重な文化財が多くあったため、米軍の爆撃対象にならなかった”と、まことしやかなことが未だに言われているようですが、これはまったくのデタラメで、少なくとも1945(昭和20)には、米軍による5回の空襲が行われています。

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  1. 1月16日 東山区馬町(東山空襲)
  2. 3月19日 右京区春日
  3. 4月16日 右京区太秦
  4. 5月11日 上京区京都御所
  5. 6月26日 上京区出水(西陣空襲)

このように、京都には確かに空襲はあったのです。ただ、その被害は東京や大阪などと比べると軽微なものだったため、投下条件である「未だ爆撃による甚大な被害を被っていない都市」に京都は合致したわけなのです。ところが、1945(昭和20)6月末、京都は原子爆弾の投下目標地の候補から除外されることになるのです。

京都を救った米国軍人の1通の覚書

京都が除外された理由に「京都には貴重な文化財が多くあるので、それが失われないように米国が配慮したから」や「美術史家のラングドン・ウォーナー博士が空爆すべきではない地名リスト、いわゆる“ウォーナーリスト”を作成し、米政府に提出したから」だとも言われていますが、最近の調査によるとその説はどうも正しいことではないことがわかってきました。

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特に除外された理由として信憑性が高いとされた“ウォーナーリスト”は、実はナチスなどの枢軸国が奪った文化財などを返還させる場合、もし破壊されるなどによってその文化財が現存していなければ、代わりに弁償させるために作られたリストだったと言われているのです。確かに、リストに挙げられている名古屋城、仙台城、姫路城などは空爆によって破壊されていますので、文化財を守るためのリストだとは言い難いかもしれませんね。

では、どのような経緯があって京都が除外されたのでしょうか。それは当時、米陸軍長官であったヘンリー・スティムソンがトルーマン大統領に1通の覚書を宛てたことが始まりだったのです。

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スティムソンは日本に対してそれなりの認識を持っていた軍人だったそうですが、彼の日記にはトルーマン大統領に進言した内容が記されています。

『私は大統領に対し、提案されている目標の中のひとつ、京都を除外すべきであると私が考える理由を再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えをこの上なくチカラを込めて繰り返し述べた。 私が、もし除外しない場合には、そのような無茶苦茶な行為は反感を招き、戦後、長期にわたって、その地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろ我々に対して友好的な感情を持たせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は特に力を込めて、これに賛同した』(「スティムソン日記(抄)」1945年7月24日付)

この頃、日本はソ連(現:ロシア)を仲介とする和平工作に動き出していました。もちろん、米国もその日本の動きを感知していて、もし、米国が京都に原子爆弾を投下しすれば、日本人は怒り、戦後日本がソ連に接近するようなことになれば、米国がアジアにおいて主導権を握ることは困難になると懸念したのではないでしょうか。

このように、スティムソンの助言に含まれた極めて政治的な配慮により、京都に原子爆弾の投下目標地から除外されました。京都は救われたのです。しかし、その結果、原子爆弾の最初の投下地は広島に変更され、急遽、長崎が候補地として追加されることになりました。

もし、日本が降伏しなかったなら…

そして、1945(昭和20)年7月26日、米英ソの3国はポツダム宣言を発して、日本に降伏を呼びかけました。ところが、日本はこのポツダム宣言を黙殺したため、8月6日に広島、8月9日には長崎に原子爆弾が投下されたのです。そして、8月15日、日本は終戦の日を迎えたのでした。

もし、長崎に投下されてからも、日本が降伏しなければ……。実は京都への原子爆弾投下計画は完全に消滅していたわけではなかったと言われています。つまり、3つ目の原子爆弾の投下があったかもしれないということです。実際、国宝や文化財を持つ京都の社寺は、その万が一に備えて、例えば、京都にある国宝や美術品を伏見にある醍醐寺に疎開させる計画や、西本願寺にある親鸞聖人の木像を奈良の山奥のお寺に移す計画など、様々な対策が秘密裏に進められていたそうです。

ターンテーブルの知られざる事実

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閉館した「梅小路蒸気機関車館」は、2016(平成28)年4月29日、同じ地に「京都鉄道博物館」として生まれ変わります。国の重要文化財に指定されている扇状車庫(重要文化財)も施設として展示され、蒸気機関車を乗せてダイナミックに回転するターンテーブルは、これからも多くの鉄道マニアや子どもたちを楽しませてくれることでしょう。ただ、このターンテーブルが、太平洋戦争末期に人類史上初めて実用化された核兵器である原子爆弾の投下目標にされていたということを知る人はほとんどいないのではないでしょうか。

京都が原子爆弾投下の第1候補であった事実、そしてターンテーブルが原子爆弾の投下目標にされていたという事実。本当は、京都に原子爆弾が落とされるはずだったのです。日本人はこの事実を負の歴史として、これからも記憶に残し続けなければなりません。

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(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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