日本最大の禅寺
京都市右京区花園。その地名にある通り、かつて、この地には四季折々の美しい花々が咲き乱れるお花畑がありました。この地をこよなく愛した人物が、第95代花園天皇です。ここに離宮を構え、禅の奥義を究め、世の平和を願われた花園天皇は、1342(康永1)年に離宮を禅寺に改めました。これが、臨済宗妙心寺派の大本山、妙心寺(みょうしんじ)の始まりです。
豊かな自然環境にあることから、古来より「西の御所」と呼ばれ親しまれている妙心寺は、10万坪(東西500m、南北619m)もの敷地(甲子園球場の8倍)を持ち、境内には勅使門から三門、仏殿、法堂などが一直線に並ぶ伽藍の他に、塔頭(たっちゅう:寺院に属する個別の坊)が38ヵ寺(境外塔頭を含めると48ヵ寺)もある広大な寺院です。これだけ大きな寺院ともなると、不思議と言われる伝承も数多く残されています。今回は日本最大の禅寺・妙心寺に伝わる七不思議の話をしましょう。
妙心寺の不思議とは!?
妙心寺の七不思議:その1「四派の松」
三門と仏殿の間に、竹垣に囲まれた4本の松が植えられていますが、これが名木として知られる「四派の松(しはのまつ)」です。
妙心寺は室町時代の1467年から約10年間続いた内乱「応仁の乱」で焼失してしまいましたが、その再建にあたって尽力した人物が、後に“中興の祖(ちゅうこうのそ)”と呼ばれた、禅僧・雪江宗深(せっこう そうしん)です。
大本山の礎を築き、妙心寺第9世を継承した雪江禅師には、景川宗隆(けいせん そうりゅう)、悟渓宗頓(ごけい そうとん)、特芳禅傑(どくほう ぜんけつ)、東陽英朝(とうよう えいちょう)の4人の弟子がいました。この4人は“四傑”といわれ、雪江禅師が『禅は景川、徳は悟渓、寿は特芳、才は東陽』と評すほど優れた禅僧で、景川が龍泉派(龍泉庵)、悟渓が東海派(東海庵)、特芳は霊雲派(霊雲院)、東陽が聖澤(しょうたく)派(聖澤院)と、それぞれが一派の開祖となり、妙心寺派の発展に寄与したと言われています。その4つの派を4本の松で表しているのが「四派の松」なのです。
現在の「四派の松」は、さほど大きくはありませんが、往古は天を突くほどの大木だったとか…。松の木は今までに幾度か植え替えられていますが、代々、1株から2本の幹が伸びている松が植えられるそうです。それは何を意味するのでしょう…。些か不思議なことですね。
妙心寺の七不思議:その2「鏡天井の雲龍図」
多くの禅宗寺院では、僧侶が説法を行う法堂(はっとう)の天井に龍が描かれています。龍は仏法を守護する八部衆(はちぶしゅう)のひとつで、龍神が水を司る神であることから、法の雨(仏法)を降らすという意味や、寺院を火災から護るという意味があるのです。因みに、日本で最初に描かれた龍図は、室町時代の画僧・兆殿司(ちょう でんす)が東福寺の法堂の天井に描いた「蟠龍図(ばんりゅうず)」だと言われています。
妙心寺の法堂の鏡天井(天井の仕上げ方のひとつで、格縁(ごうぶち)などを用いず、鏡のように一枚板を平面に貼った天井のこと)にも“八方睨みの龍”と呼ばれる龍図が描かれています。
重要文化財にも指定されているこの龍図は、正式名を「雲龍図(うんりゅうず)」といい、江戸時代初期の絵師・狩野探幽(かのう たんゆう)の作です。龍図は1657(明暦3)に法堂が建立されるのに合わせて、妙心寺側が注文したもので、龍は鏡天井に貼る板に直接、描かれています。もちろん、絵自体は地上で板に描いた後に天井に吊り上げられたそうですが…。
直径が12mもある大きな雲龍図は、外側に霊雲、内側に黒雲を背景に、1匹の龍がとぐろを巻いているかのように描かれています。どの位置に立って見ても、常に龍に睨まれているように見えることから、“八方睨みの龍”と呼ばれているわけですが、それだけではなく、見上げる場所によって、龍が天から降りてくるように見え、また昇るようにも見えるという不思議な感覚が体感できる龍図です。
この雲龍図にはあるエピソードが残されています。それは、龍図がいよいよ完成となる最後に、探幽が龍の眼に筆を入れた瞬間、にわかに暗雲が空を覆い、雷鳴が轟いて暴風雨になったということです。それほど、龍図の出来映えが素晴らしかったということなのでしょう。
探幽は、構想に3年、筆をとって5年、合計8年の歳月をかけて、探幽が55歳の時に雲龍図を完成させました。ところが探幽は龍図が完成すると、画料も酒樽も何も受け取らず、立ち去ったと言われています。探幽という絵師は、なかなか格好いい男だったようです。
妙心寺の七不思議:その3「黄鐘調の鐘」
妙心寺の法堂の北東隅に、老朽化が進み、ひび割れが生じる可能性が出てきた古鐘が保管されています。この古鐘は、以前は法堂の西南にある鐘楼に吊られていた鐘で、「黄鐘調の鐘(おうじきちょうのかね)」と呼ばれていました。
高さ約1.5m、口径約86cm、重量約830kgの古鐘には記念銘があり、そこには「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」と書かれています。この銘によれば、この古鐘は“戊戌年”、つまり飛鳥時代後期の698(文武天皇2)年に“糟屋(政庁)”の“評造(役人)”である“春米連広国(つきしねのむらじひろくに)”という人物によって鋳造されたとあります。このように記念銘のある鐘としては日本最古のもので、国宝に指定されています。
この古鐘は、もともとは聖徳太子が大坂(大阪)に建立した四天王寺の聖霊会において、楽律の調整に用いられた鐘で、その後、法金剛院(現:右京区花園)に移されたと言い伝えられているのですが、その鐘が妙心寺の梵鐘となった経緯がひとつのエピソードとして残されています。
ある日のこと、初代住持の開山禅師は妙心寺門前で鐘を運んでいる農民に出会いました。開山禅師が農民にその鐘をどうするのかと尋ねると、農民は鐘を売って、農機具と取り替えると言うので、開山禅師は妙心寺に梵鐘がなかったことから、鐘を鳥目一貫文(ちょうもくいっかんもん:米十石相当)で農民から買い取ったと言われています。
800kgを超す鐘を農民はどのようにして運んでいたのか、そして、住職がお金で鐘を買い取るなんてことがあり得るのだろうかと考えると、この話は作り話のように思えまてきますが、エピソードとしては面白いかもしれませんね。
ところで、この古鐘の通称にある“黄鐘調”とは、何のことなのでしょうか? その答えは吉田兼好が鎌倉時代末期に書いたとされる、日本三大随筆のひとつ『徒然草(つれづれぐさ)』にあります。
『徒然草』の第220段の中で次のようなことが書かれています。
「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」
(現代語訳:鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。)
元来、黄鐘調とは雅楽に用いられる六調子の中のひとつで、オーケストラの最初の音合わせに用いられる音階、つまり、基本となる音のことなのですが、その意味合いを鐘の音に置き換えて、鐘の最も理想的な音(西洋音階の「ラ」)を“黄鐘調”としているわけです。
そして不思議なことに、オーケストラの音合わせに用いられる基本の音の周波数は129ヘルツなのですが、この古鐘の音の周波数も同じ129ヘルツなのだそうです。まさに、この古鐘は“黄鐘調の鐘”と呼ばれるに相応しい、理想の音を鳴り響かせる鐘なのです。
妙心寺の七不思議:その4「明智風呂」
お風呂の歴史は古く、奈良時代に既にあったとされていますが、その日本のお風呂の歴史に於いて貴重なお風呂が妙心寺にあります。そのお風呂とは、三門の東にある浴室のことで「明智風呂(あけちぶろ)」と呼ばれています。エッ!明智?って思われたかもしれませんが、その通りで、この明智風呂の“明智”は、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀のことなのです。
光秀は信長を討った後に、妙心寺を訪れ、参拝したという記録が残されており、更に1582(天正10)に小栗栖(おぐるす:現・京都市伏見区)で負傷(定説では竹槍で刺殺されたと言われている)した後に妙心寺に潜伏し、その1年後に亡くなったという説もあります。これらのことの真偽のほどはわかりませんが、妙心寺と光秀には何らかの関係があったことは事実のようで、光秀の母方の叔父にあたる妙心寺の塔頭・大嶺院(1978年に大龍院と合併し、現在は存在しない)の密宗(みっしゅう)和尚が、1587(天正15)に光秀の菩提を弔うために、逆賊という汚名を洗い流すという意味で、明智風呂を建てたとされています。
当時のお寺では、入浴は修行の一環で、仏に仕えるために身を洗い清めるものと考えられていました。明智風呂は、お風呂と言っても浴槽があるわけではなく、浴室の床には簀の子(すのこ)が敷かれ、その床下に沸いたお湯を流し、簀の子の隙間から上がる湯気で体を温めるという蒸し風呂で、現代で言うならばサウナ風呂のようなものだったようです。
明智風呂は暫く間、光秀の供養のためだけに使われていましたが、1656(明暦2)に改築されて以来、1927(昭和2)年までの間、僧侶たちの禊ぎ(みそぎ)のために使われたそうです
光秀は信長を本能寺で討った後、自刃するつもりで叔父がいる妙心寺を訪れたとも言われています。これは勝手な推測ですが、この時、光秀は妙心寺でお風呂に入り、身も心も清めようと考えていたかもしれません。もしそうであれば、光秀は自分の供養のために建てられたお風呂を草葉の陰から見て、きっと喜んでいることでしょうね。
妙心寺の七不思議:その5「牛石」
妙心寺の境内南東の位置に、塔頭のひとつ「玉鳳院(ぎょくほういん)」があります。
大徳寺の開祖・大燈国師妙超(だいとうこくし みょうちょう)の進言によって、花園天皇がこの地にあった離宮・萩原殿を禅寺に改め、初代住職に、伊深(いぶか:現・岐阜県美濃加茂市)から開山慧玄(かんざん えげん)を招いて、妙心寺が創建されました。その時に、花園天皇自らの禅宮として建てられたのが、玉鳳院です。このように、玉鳳院があるこの場所は、妙心寺発祥の地であり、山内で最も神聖な場所とされているのです。
その玉鳳院の境内に入った左手に、「牛石(うしいし)」と呼ばれている一枚岩の自然石が置かれています。
確かに見方によっては牛の形をしているように見えなくもないですが、実はこの石には不思議なエピソードが残されているのです。
開山禅師は京に上洛するまでは、伊深の村人たちに慕われ、日々田畑を耕し、牛を追う生活を送っていましたが、花園天皇に招き迎えられることになり、京の都に向かうときに禅師が世話をしていた牛が別れを惜しみ、涙を流しながら、禅師を追いかけてきたと言われています。
この逸話に基づいて、1952(昭和27)年に妙心寺派22代管長になった古川大航老師は開山禅師と牛との仏縁に因んだものを妙心寺にもと思われ、「牛石」と名を付けた石を安置されました。しかし、その後、牛石は行方不明となってしまうのです。
ところが、開山禅師が亡くなって600年目に当たる1959(昭和34)年の春に、滋賀県安土町にある民家に牛石があることがわかり、再び京都に運ばれ、開山堂前に奉納されました。そして、開山の650回忌に当たる2009(平成21)年に今ある場所に移されたのです。
それにしても、牛石を持ち去ったのは、いったい何者なのでしょうか…。そして、どうして民家に持ち込まれたのでしょうか…。それは今も謎のままです。
妙心寺の七不思議:その6「開山国師洗脚石」
妙心寺の境内西に、江戸時代の大名・中村忠一(なかむら ただかず)が亡き父・中村一氏の7回忌に創建した塔頭・大龍院(だいりょういん)があります。
その方丈の裏手に「開山国師洗脚石(かいざんこくしせんきゃくせき)」または「開山足洗石(かいざんそくせんせき)」と呼ばれる石が安置されています。
開山禅師は教えを乞うために、天龍寺の夢窓疎石(むそうそせき:夢窓国師)のもとによく訪れたそうですが、その時、開山禅師は途中、嵯峨野の所願成就で知られる油掛地蔵(あぶらかけじぞう)の前を流れる有栖川で必ず足を洗い清めてから、天龍寺に向かったそうです。さすがに徳の高い人は礼儀をわきまえていますよね。
その行いをたまたま目にした天龍寺の僧侶は、開山禅師が足を洗うのが少しでも楽になればと思い、腰が掛けれるほどの大きさの石を川の岸辺に置いたそうです。その石が開山国師洗脚石です。
その後、石は天龍寺の塔頭・南芳院に保管され、更に明治期に妙心寺派管長を務めた今川貞山(いまがわ ていざん)によって大龍院に移され、庭園に置かれています。単なる石に過ぎないものでも、関わった人によって歴史に残るものなんですね…。
妙心寺の七不思議:その7「南蛮渡来の鐘」
妙心寺の境内北西の位置する塔頭のひとつ、「春光院(しゅんこういん)」は、豊臣秀吉に仕え、後に松江開府の祖となった豊臣政権三中老のひとり、堀尾吉晴(ほりお よしはる)が、小田原の戦いで戦死した長男の堀尾金助(ほりお きんすけ)の菩提を弔うために創建された寺院です。商売繁盛の寺としても知られている春光院ですが、このお寺には京都で最初の教会「サンタ・マリア御昇天の教会」、通称「南蛮寺(なんばんんじ)」に伝わる銅製の鐘が保存されています。
この鐘は、高さ約61cm、口径約44cm、重量約160kgと小ぶりで、その形状は明らかに日本の鐘とは異なり、西洋風の鐘で、その表側面にはイエズス会の紋章として、太陽の模様と十字架、そして、イエス・キリストのギリシャ語の略字「IHS」の文字が刻まれており、裏側面にはアラビア数字で“1577”と刻まれています。
キリスト教はご存知の通り、1549(天文18)年にポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩に到着して日本中に伝わっていきましたが、当初の目的は“京都での布教”だったと言われています。ザビエルは天皇に布教の許可を得た上で、関東に布教を広める計画をしていたようなのですが、天皇との謁見は叶わず、態勢を立て直そうとインドのゴアに入りますが、そこでザビエルは病死してしまいました。そのザビエルの遺志を継いで、京都布教の許可を得たのが、ガスパル・ヴィレラです。
当時、京都の実質的な支配者が天皇ではなく、将軍であることを見抜いていたガスパルは、将軍・足利義輝に会い、1560(永禄3)年に京都での布教の許可を得たのです。
その後、1565(永禄8)年に義輝が殺されると、キリスト教は迫害を受けるようになりますが、織田信長が入京すると、信長に保護され、キリスト教は一気に広まっていくことになります。信長はキリスト教自体には興味がなかったそうですが、宣教師のキリスト教に対する激烈な姿勢に惹かれたのだそうです。
1576(天正4)年に蛸薬師通室町に3階建ての教会、「サンタ・マリア御昇天の教会」、通称「南蛮寺(なんばんんじ)」が完成し、その鐘として造られたのが、現在、春光院に保存されている鐘だと言われています。ところが、鐘には“1577”の数字が…。この数字が年代を表すものであれば、南蛮寺が完成した年代と異なっています。これは、単なるミスなのでしょうか、それとも、この鐘は南蛮寺の鐘とは別物なのでしょうか…。この点は今も謎のままです。
豊臣秀吉の時代になると、再び、キリスト教は迫害を受けるようになり、南蛮寺は取り壊され、鐘も仙台の龍宝寺というお寺に移されたと言われています。その後も各所を転々とし、江戸時代の1854(安政1)年に仁和寺から春光院に移されました。
第2次世界大戦中、金属が不足していた軍部は、春光院に鐘を提出するように求めてきましたが、当時の住職はキリシタンが大切にしていた鐘だからと、地中に隠し、寺にあった別の鐘を差し出して、この鐘を護ったというエピソードが残されています。南蛮渡来の鐘は波乱に富んだ日本の様々な時代をくぐり抜けた鐘なのです。
妙心寺:京都市右京区花園妙心寺町64 TEL : 075-463-3121
玉鳳院:京都市右京区花園妙心寺町1 TEL : 075-461-5226
大龍院:京都市右京区花園妙心寺町40 TEL : 075-462-9232
春光院:京都市右京区花園妙心寺町42 TEL : 075-462-5844
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