本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に奇襲され、最期を迎えた「本能寺の変」で有名な寺院ですが、その「本能寺の変」から暫く経った後に植えられたと言われる1本の大きなイチョウ(銀杏)が、境内にあります。今は青いイチョウの葉も、秋が深まるにつれて、葉は黄色く色づき、華やかな風情を境内全体に醸し出します。
ところで、お寺にイチョウというのは、ちょっとそぐわないように思いませんか? どうして、本能寺にイチョウが植えられたのか…。実はこのイチョウには、あるひとつの伝説が残されているのです。今回は本能寺の境内にそびえ立つ「イチョウ」の話をしましょう。
イチョウにまつわる伝説とは
市民や観光客、修学旅行生らで賑わう寺町通に面した本能寺の門をくぐり、そのまま境内を本堂に向かって進むと、本堂の奥の南東角に、そのイチョウはあります。幹回りは約5メートル、高さは約30メートルもある、見上げれば覆い被さってきそうな巨大なイチョウですが、このイチョウには不思議な伝説があるのです。
1788(天明8)年の旧暦1月に京都の町は大火災に襲われます。「天明の大火」と呼ばれるこの大火災は、町の中心部全域に火の手が回ったといわれ、『法華宗年表』という書物には「禁裏(御所のこと)、二条城、公家65、町屋18万余、神社220余、寺院928余」と記録されており、その被害からすると、京都の町をまさに火の海と化した大火災だったようです。
町が火に包まれ、猛火から本能寺の境内に逃げてきた人々は、イチョウの木の下に身をひそめていました。火は本能寺にも迫ってきて、次々と境内の建物を焼き、ついに本堂にも火が回り始めました。と、その時です。突然、イチョウから勢いよく水が噴き出し、その水によって、木の周囲にあった本堂やその他の建物は延焼を免れ、イチョウの木の下に避難していた人々も助かったと言われています。こういった不思議なことがあってから、このイチョウは人々の間で『火伏せのイチョウ』と呼ばれるようになり、2004年には京都市の保護樹にも指定されています。
イチョウの葉の秘密
それにしても、このイチョウは本当に水を噴き出し、迫り来る炎を食い止めたのでしょうか。それは、真剣に考えるまでもなく、実際に火を消すほどの大量の水が噴き出すことは、まずあり得ないことですが、ただ、イチョウの葉は他の植物の葉と比べると、含水量がとても多いそうで、そのために防火林として街路樹などに用いられることがあります。
水分の多い樹木が熱せられると、魚を焼くと表面に水分が浮いてくるように、葉の表面に水が浮いてくることがあるのだそうです。ですから、このイチョウから水が噴き出すことはなかったにしろ、火事の熱で、葉に水分が浮き出て、濡れた状態になったとは十分に考えられるのです。
そういったことから、この『火伏せのイチョウ』の伝説は、たまたま火の勢いが衰え、消えたことに、イチョウの葉に水分が浮き出したことを関連づけて、人々が興味を持つように作られた話だったのではないでしょうか。
平均75年に1回の火難
本能寺は1582(天正10)年に「本能寺の変」で炎上、焼失しましたが、これは本能寺にとって初めてのことではなく、4回目の火難になります。実は、本能寺はその歴史の中で、今までに6回も炎上し、その度に焼失と再建を繰り返しているのです。それは、本能寺の資料によると、平均75年に1回の割合で焼失していることになるそうです。
あまりにも度重なる火難に、当時の人は何か因縁でもあるのかと考えたのでしょう。寺名にある「能」という漢字のツクリの部分に“ヒ”が縦に2つありますが、それが“火火”と解釈され、縁起が悪いことだとされました。そこで、ツクリの部分を“去”に変えて、「ヒ(火)が去る」という意味を「能」に持たせ、それを寺名として表記するようにしたのです。それ以来、火難は起きていないそうです。字をわざわざ変えた甲斐があったということでしょうか…。
本能寺の表門に向かって左手に、寺名が彫られた石碑が立っていますが、その「能」のツクリの部分は「去」に変えられています。決して、「この字、間違ってる!」っなんて言わないように。
本能寺のイチョウは、このように繰り返される火難があったことから、防火林として植えられたのかもしれませんね。お寺にそぐわないイチョウも、それなら納得です。でも、防火林として植えられたとしたら、先人たちはイチョウが水分を多く含んでいる植物だということを知っていて植えたのでしょうか…。もし、そうなら、先人の知恵はやはり、スゴいですね。
本能寺:京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522 TEL : 075-231-5335
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