夜中の3時、信長が厠から出て手と顔を洗っていたその時、1本の矢が信長の背中に突き刺さった。信長はすぐさま小姓に薙刀を持たせ、その薙刀で攻め来る明智光秀の軍勢に立ち向かった。しかし、今度は明智軍の鉄砲隊が放った弾が信長の左肩に命中し、その直後に信長は障子を閉じて、火を放ち、自害した……。「本能寺の変」、天正10年(1582年)6月2日。今回は戦国史上、最大の謎と言われる「本能寺の変」の話をしましょう。
警備は万全だった本能寺
本能寺は、今は京都市の真ん中、京都市役所の南側にありますが、「本能寺の変」が起きたときは今の場所より南西方向の四条西洞院辺りにあったとされています。当時の本能寺は東西に約110メートル、南北に約220メートルの敷地を持つ広大なもので、周囲は堀で囲まれていたそうです。
本能寺は信長が上洛の時に宿として使っていた寺院で、命を狙われることも考えて、元の本堂を改築し、堀や石垣、土居で敵の侵入を防ぐ造りになっていたようです。護衛兵も配備され、警備は万全でした。
ところが、本能寺の変が起きた6月2日は御所前で馬揃え(今で言えば軍事パレードのようなもの)が行われる予定があって、この日の本能寺の警備は手薄で、護衛兵は100人程度。対する明智光秀の軍勢は1万3,000。どう転んでも信長に勝ち目がないことは明白で、恐らく、信長も自分の命運を悟り、自らの手で命を絶ったのでしょう。
信長は死んでいない!?
ところが、本能寺で死んだはずの信長の遺体は、実は確認されていないのです。そういうこともあって、信長は本能寺に自ら火を放ち、その隙に抜け穴から外へ脱出し、どこかで生き延びたという説もあるのです。警戒を常に怠らなかった信長のことですから、本能寺に抜け穴を作ることぐらいは十分に考えたことでしょう。
「本能寺の変」勃発の理由
事実は歴史のみが知ることで、本能寺の変は謎の多い出来事ですが、明智光秀が織田信長に対して反旗を翻した理由は未だにわかっておらず、諸説いろいろあって、その数はなんと50を超え、戦国史上、最大の謎とされています。
有力な説としては「怨恨説」「野望説」「悲観説」「黒幕説」「四国政策説」「足利義昭説」「羽柴秀吉説」「徳川家康説」などと言われていますが、どれもありそうな説ばかり。歴史ファンにとっては興味津々というところでしょう。ところが、先頃、もしかするとその最大の謎を解くヒントになるかも知れない、ある物証が出てきたのです。
説の裏付けとなる2つの書状
説の1つの「四国政策説」は、四国を元親の領地にと考えた光秀が、元親と親戚関係にある利三を通じて、自分の考えを信長に話したところ、信長は激怒し、態度を一変して、信長に忠誠を誓った元親を討とうとしたため、光秀が信長に反旗を翻したという説ですが、それを裏付けるかもしれない書状が見つかったのです。
それは信長が光秀に討たれた「本能寺の変」の直前に、光秀の重臣と四国の戦国大名である長宗我部元親の間で交わされた、信長による四国統治に関する書状で、岡山県にある林原美術館が所蔵する「石谷家文書」と呼ばれる古文書群の中から見つかりました。石谷家は光秀の重臣だった斉藤利三と親戚関係にあったため、利三と元親が交わした書状が石谷家に残っていたというわけです。
その書状を調べたところ、「本能寺の変」が起きる5ヶ月前に利三が長宗我部家の親戚に宛てた書状には、四国の一部の領有しか認めないとした信長の提示を拒否した元親に考え直してくれるように、その親戚からお願いして欲しいといった旨が書かれていたそうです。そして、「本能寺の変」が起きる10日ほど前に元親から利三に宛てられた書状は、四国への出兵を決めていた信長に忠誠を誓って、元親がその戦を避けようと考えていることがうかがえる内容が書かれていたのです。
この2つの書状が何を意味するかは、今後、専門家によって紐解かれることでしょうが、これらの書状によって数ある説の中で「四国政策説」が有力となり、戦国史上最大の事件「本能寺の変」が起きた理由が明らかになるかも知れませんね。
真実はただひとつ。その真実を知っているのは・・・、明智光秀、ただひとり!
本能寺:京都市中京区寺町通御池下ル本能寺前町522 TEL:075-231-5335
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