京都怪異譚 その3『血洗池~3つの伝説』

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京都市山科区の北西部になんともオドロオドロシイ地名があります。その地名とは「血洗町(ちあらいちょう)」。

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字を見るからに何かいわくがあることが間違いなさそうな地名ですが、その由来は今もこの地に残る「血洗池(ちあらいいけ)」の伝説から来ていると言われています。

今の血洗池は家の宅地の中の3メートル四方程度の大きさで、池というよりは単なる水溜まりのようになっていますが、この地が宅地として開発されるまでは竹藪に囲まれた大きな池だったそうです。

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血洗池の伝説とは!?

この池にまつわる伝説の主人公は若かりし頃の源義経、つまり、牛若丸です。1177(安元3)年の初秋、牛若丸は奥州の平泉に向かう途中、平家の侍であった美濃国の関原与一とその従者の一向に出会します。その時、与一が乗った馬が道の水溜まりを蹴り、その水が偶然にも牛若丸に掛かってしまったのです。

ここでちょっと余談になりますが、馬が水溜まりを蹴ったことから、後にこの場所を「蹴上(けあげ)」と名付けられ、今も地名として残っています。

さて、話を戻しますと、水を掛けられたことに酷く憤慨した牛若丸は、刀で馬に乗っていた与一の鼻を削ぎ、斬り殺し、さらに従者の8人を斬り殺すという殺人鬼さながらの行為に及んだのです。美男子と言われる牛若丸って、キレやすい性格だったのかも知れませんね。アブナいヤツだったんだ…。

で、それはさておき、それほどの人数を斬ったわけですから、当然、牛若丸が手にする刀には血がべっとり。牛若丸は池のほとりにある石に腰を掛けて、刀に付いた血を池で洗い落としたのでした。そういう凄惨なな出来事があって、その池は「血洗池」と呼ばれるようになったのです。

また、牛若丸が刀を洗うときに座った石は「牛若丸腰掛石」と言われ、今も四角い形の石が残されています。

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血に染まった刀を池で洗ったというどこにでもありそうな話ですが、話の主人公がかの有名な牛若丸というところに惹かれる伝説です。

血洗い伝説は他にもあった!

ところで、この血洗池にまつわる伝説はあと二つあるのです。

そのひとつは主人公は同じ牛若丸で、京都から奥州に向かう途中までは同じですが、ここからが少し違います。牛若丸がこの血洗池の付近に差し掛かったとき、突然、盗賊に襲われ、牛若丸は盗賊を斬り殺し、血の付いた刃を血洗池で洗った後、石に腰を降ろして休憩をしたという伝説。

そして、もうひとつは木曽義仲が義経に敗れて、大津に逃げ行く途中、巴御前と一緒に血の付いた刃を洗ったという伝説です。

このように、血洗池にまつわる伝説は3つあるわけですが、“血の付いた刀を池で洗った”というくだりは、どの伝説にも共通しているところが興味深いですね。

伝説というのはもともと信憑性の薄いものが多く、時代とともに話の内容が変わることがよくあります。そういう、はっきりとしないところにロマンがあったりもするわけですが、ただ、この血洗池は実際に今も存在する池であり、池の名前に「血」と「洗」の字が今なお残されていることからすると、やはりこの地で何か恐ろしいことがあったということは確かなことではないでしょうか…。

血洗町:京都市山科区御陵血洗町

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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コメント

  1. まめしば より:

    義経酷い!怖い!と、思ったのですが、清水克行先生著『喧嘩両成敗の誕生』と、繁田信一先生著『殴り合う貴族達』を読んで、考えが変わりました。
    当時の人たちは、上は貴族から下はホームレスの孤児まで『自尊心が山のように高く、少しでもバカにされたらすぐに刃物を持ち出し、相手に斬りつける。やられたらやり返さないと気がすまない。共同体への同化意識が強くて、同郷の人間が傷付けられたら、即、武器持参で仕返しに走る』のが、スタンダードだったそうです。
    そんな人達が跳梁跋扈する末法の世に生きていたら、義経がエピソード通りに振る舞うのも仕方ありません。
    (むしろ本に紹介されていた「浮浪児が自分の輿の前にいて、ムカついたから切り捨てた人」や「クレームを入れた女性客に逆ギレし、散々殴る蹴るした挙げ句、髪を切って放逐した店主」「道を譲らなかった牛車にキレて、家来と一緒に持ち主への破壊と暴行を働いた挙げ句、通りすがりの市民をも脅して、持ち主への暴力を強要した貴族」等々に比べれば…まだまし、かも?)

    • cyber-e より:

      まめしば様

      興味深いコメント、誠にありがとうございます。

      そういったことが日常的にまかり通る社会だったんですね。今がそんな時代ではないことにつくづく幸せなことだと思います。
      でも、当時の貴族たちのように道理の通らない、非常識な輩は今の世にもいるようですが…(笑)

  2. まめしば より:

    またまた失礼致します。
    しかも当時の人々が、それらの乱暴に対し下している評価は「勇ましくって凄い!!」「力で決着を付けるのは判りやすくて良い」「格下に身をもって理解させてやった正しい人」ですからね。(一部の秩序を重んじる人々除く)
    まさしく力こそが正義だったんだと、思い知らされます。
    (同時に「そりゃあ、貴族を押し退けて武士がのさばるのも当然」と納得した)
    今でこそ、泥はね位で人を切り捨てたら軽蔑されますが、義経も当時だったら「当然の行為。」「さすが英雄義経公!そこに痺れる憧れるゥ!!」という評価を下されていたんでしょうね。

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