♪京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて 牛若めがかて斬りかかる♪
このように童謡(唱歌)『牛若丸』に歌われているためか、源義経(牛若丸)と弁慶が出会った場所は、京都の五条大橋というのが通説になっていますが、牛若丸伝説の基となる『義経記(ぎけいき)』には、2人の出会いは2度あって、最初が五条天神、そして、2度目が清水寺となっていて、五条大橋の名前は何処にも出て来ません。今回は源義経と武蔵坊弁慶の出会いについて話をしましょう。
『義経記』に書かれた義経と弁慶の出会いとは?
源義経のことが最も詳しく書かれている書物は、室町時代初期に書かれた『義経記』だと言われています。ところが『義経記』は、いわゆる軍記物で、かなり義経寄りの書き方になっているため、書かれていることがどこまで史実であるかは計りかねますが、その『義経記』には、義経と弁慶が最初に出会ったのは、1176(安元2)年6月のとある日の夜のことで、場所は五條天神社の近くと書かれています。この時、義経は18歳。牛若丸のイメージからすると、幼さが残る少年を連想しますが、この時には既に立派な大の男だったんですね。
“牛若丸”という名は、義経の幼名で、15歳の時に“遮那王(しゃなおう)”という名に改名し、16歳で元服した折に、“義経”と名乗るようになったとあります。弁慶と一戦を交えた時の名を敢えて“牛若丸”としたのは、遮那王・義経という、いかにも強そうな名前よりも、幼さを感じる牛若丸の方が、豪傑な弁慶に対して美男子とされた義経のスマートさが際立ち、話としてよりドラマチックになると考えられたからでしょう。
最初の出会い
この夜、既に999本の太刀を奪い取っていた弁慶は、1000本目に奪う太刀が良い太刀であるようにと五條天神で祈願していました。そこに、笛を吹く義経が偶然、通りがかり、それを目にした弁慶は「太刀をよこせ!」と義経に襲いかかったのです。すると、義経は弁慶の分厚い胸を蹴って、築塀の上に飛び上がり、持っていた自分の太刀を足で踏みつけ折り曲げてから、「欲しければ、くれてやるわ」と言わぬばかりに、弁慶に向かって、その折り曲がった太刀を投げつけたのです。そして、堀から飛び降り様に斬りかかってきた弁慶の太刀を、空中で止まって、また舞い上がるという兵法の奥義、六韜(りくとう)の秘術で交わし、弁慶を翻弄したのでした。そして、この夜はそのまま引き分けとなったのです。
2度目の出会い
翌日、義経にあしらわれっぱなしだった弁慶は、その悔しさから、何とか仕返しをしようと考えていたところ、その日は清水寺が縁日だったことを思い出し、もしかしたら昨夜の男(義経)も来るかもしれないと考え、清水寺の山門の前で待ち伏せることにしたのです。
しばらく待っていると、そこに弁慶が予想した通り、義経が現れました。弁慶は義経の前に立ちはだかり、今度は薙刀で斬りかかったのです。ところが、またしても弁慶は義経に軽くあしらわれてしまいました。それでもなお、弁慶は義経を追いかけ、本堂にある清水の舞台で決闘が繰り広げられましたが、大立ち回りの末、弁慶は義経に取り押さえられ、結局、弁慶は義経の家来として、義経と君臣の契りを結ぶことになったのです。
どうして“五条の橋”が通説になったのか
これが『義経記』に書かれている義経と弁慶の出会いの話ですが、やはり“五条大橋”は出て来ないのです。ところが、よく知られている童謡の歌詞には“五条の橋”とあるわけですが、では、この“五条の橋”はどこから来たのでしょうか?
『義経記』を基に書かれたとされる御伽草子『橋弁慶』や謡曲の『橋弁慶』には“五条の橋”が登場するのですが、どうも童謡はこの『橋弁慶』を参考にして作られたようで、それで“京の五条の橋の上”というフレーズになったわけです。『義経記』よりも、童謡『牛若丸』や謡曲『橋弁慶』の方が広く知られているので、通説として義経と弁慶の出会った場所は五条大橋だということになったのでしょうね。
2人が出会った時代には五条大橋はまだなかった!
現在の五条大橋と河原町五条交差点の間の中央分離帯に義経(牛若)と弁慶の立ち回りをイメージした石像が置かれていますが、五条大橋は1590(天正18)年に鴨川の上流にあった橋を豊臣秀吉が今の場所に移築したもので、義経と弁慶が生きた時代には五条大橋はまだ存在していなかったのです。つまり、義経と弁慶の出会いの場所を五条大橋とするのは明らかに間違いだということなのです。ならば、『義経記』に書かれている出会いの場所が正しいかといういうと、実はそれも怪しいようなのです。
伝説として語り継がれた義経
『義経記』は当時の伝説に作者の創作が加えられたもので、作中には史実と矛盾する箇所が多く見られ、史料としては信頼性の低いものとされています。一応、ジャンルとしては軍記物語となっていますが、時には伝奇物語とされることもあるようです。
また、『義経記』と『橋弁慶』では出会った場所だけではなく、その時期や、ストーリーまでも異なっています。例えば、出会った時期で言えば、『義経記』では、義経が奥州に下った後に、都の様子を見に来た時となっていますが、御伽草子の「橋弁慶」では鞍馬山で修行をしていた時のことで、謡曲の「橋弁慶」は鞍馬に入山する前の時となっています。
更にスートーリーとなれば随分と違っていて、御伽草子の「橋弁慶」では、1000本の太刀を奪うのは弁慶ではなく、義経になっており、その悪行を知った弁慶が義経を討とうとしたところ、返り討ちに合うという話になっています。義経は悪者として描かれているわけですね。
このように様々な設定やストーリーがあって、しかも、そのすべてが伝説として語り継がれてきた“源義経”だからこそ、後世の人たちによって思い思いに解釈され、世紀を超えて今もなお、私たちを楽しませてくれるのです。
五條天神社(天使の宮):京都市下京区松原通西洞院西入ル TEL : 075-351-7021
清水寺:京都市東山区清水1丁目294 TEL : 075-551-1234
(写真・画像等の無断使用は禁じます。)