平安時代に貴族の別荘地となって以来、京都屈指の景勝地として知られる嵯峨嵐山。春には桜、秋には紅葉と多くの人で賑わう人気の観光スポットですが、その中心を流れる桂川に架かる渡月橋からほど近くに『古都京都の文化財』のひとつとして世界文化遺産に登録されている「天龍寺(てんりゅうじ)」があります。今回は足利将軍家ゆかりの禅寺「天龍寺」の話をしましょう。
「京都五山」の第1位の禅寺
天龍寺は室町幕府初代将軍である足利尊氏(あしかが たかうじ)によって、1339(暦応2)年に創建された臨済宗天竜寺派の大本山で、室町時代には幕府の庇護を受け、「京都五山(格付けされた京都の禅宗寺院のうちの上位5つの寺院)」の第1位に位置付けられた、格式ある禅寺です。
天龍寺がある場所には、平安時代の頃、嵯峨天皇の皇后である橘嘉智子(たちばなのかちこ:檀林皇后)が開いた日本で最初の禅宗寺院と言われる「檀林寺(だんりんじ)」がありました。しかし、檀林寺は皇后が亡くなると急速に衰退し、平安中期には絶えてしまいました。
それから400年ほど経ってその跡地に後嵯峨天皇が仙洞御所を造営し、その皇子の亀山天皇も“亀山殿”と呼ばれる離宮を造りました。因みに、“亀山”とは、天龍寺の西にある、モミジの名所として知られる“小倉山”の別名で、山の姿が亀の甲に似ていることから“亀山”と呼ばれるようになったそうです。
創建の切っ掛けとなった禅僧の言葉
時は南北朝時代に移り、足利尊氏は1333(元弘3)年に後醍醐天皇が起こした建武の中興(けんむのちゅうこう:鎌倉幕府を倒して京都に戻り、天皇親政を復活させたこと)に対して異を唱え、天皇に反旗をひるがえしました。後醍醐天皇は尊氏の追討を命じ、争いになりますが、その結果、尊氏が勝利し、後醍醐天皇は吉野へ逃れ、公家政権の建武新政はわずか2年半で幕を閉じることになったのです。
後醍醐天皇は吉野南朝の仮宮で復権を謀りますが、1339(暦応2)年に急死してしまいました。その時、天皇は「玉骨(亡骸)は南山(吉野)の苔に埋もれても、我が魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ:皇居)の天を望まん」と、遺言を残しましたが、後醍醐天皇と親交が深かった禅僧・夢窓疎石(むそう そせき)がその天皇の意を推し量り、帝に対してわだかまりを持ち続けていた尊氏に「帝の菩提を弔い、魂を鎮められては如何か」と進言したのです。尊氏は絶大な信頼を寄せる疎石の言葉に心動かされ、後醍醐天皇の鎮魂のために離宮の亀山殿を寺に改め、天龍寺が創建されることになったのです。
幕府の財政難を救った方策とは!?
この頃の室町幕府は、南北朝の戦乱の後ということもあって、財政的には豊かではありませんでした。天龍寺造営のために、備後、日向、阿波、山城などの諸国も寄進しましたが、それでも資金は足らず、天龍寺の建設は遅々として進みませんでした。
そんな折りに、夢窓疎石が1つの方策を提言しました。それは元寇以来途絶えていた元との貿易を再開し、それで得た利益を天龍寺の造営費に充てるというものでした。これがいわゆる「天龍寺船」で、この方策は莫大な利益を生んだだけではなく、日本の文化の発展にも大きく貢献することになったのです。
後醍醐天皇の崩御から6年後の1345(康永4)年に、天龍寺は夢窓疎石を初代開山に迎え、落慶法要と後醍醐天皇の七回忌法要が執り行われました。
創建当時の面影を残す庭園
京都五山の第1位として栄えた頃の天龍寺の境内は嵐山一帯に広がり、その中に塔頭(たっちゅう)が150寺もあったそうです。ところが、その後の応仁の乱や蛤御門の変の戦火や、その他の幾度の火災により、創建当時の建物はことごとく焼失し、現在ある伽藍のほとんどは明治時代後半以降に再建されたものです。但し、大方丈の西側に広がる、亀山を借景にした池泉回遊式庭園「曹源池庭園(そうげんちていえん)」だけは創建当時の面影が残っていると言われています。この庭園を手掛けた人物は、天龍寺初代住職の夢窓疎石です。
疎石は作庭家としても名高く、この庭園の他に、苔寺の名で知られる西芳寺の庭園や等持院の庭園、鎌倉の瑞泉寺の庭園なども疎石の作庭です。
庭造りは禅の修行
疎石は、その半生を仏の道を求めて全国を渡り歩き、自己の研鑽につとめ、その中で自然が備え持つ“変化の中の普遍”を感じ、自然に対して徹底的に悟りを深めていくことを学びました。疎石が造ったすべての庭に、この経験が生かされていると言われています。
庭に対する疎石の考え方は、足利直義(あしかが ただよし:足利尊氏の弟)との間で行われた問答の中で述べられており、その内容が書き綴られた『夢中問答集』に次の一文が残されています。
「山水には得失なし。得失は人の心にあり。」(庭を愛でるも、作るも、一概に良いとか悪いとかを言えることではない。その人の心掛け次第で良い事とも悪い事とも取れるのだから)
疎石は庭を眺めることもひとつの修行だとしていました。庭造りを禅の修行と心得ていた疎石は、仏法の理を観ずること、つまり「無」の境地に至るために行う座禅のための庭を造ったのです。
自らを「煙霞(えんか)の痼疾(こしつ)、泉石(えんせき)の膏肓(こうこう)」と称した夢窓疎石。これは山水を好む習癖と庭造りは持病のようなものだという意味なのだそうですが、この言葉からも、庭に寄せる思いは尋常ではなかったことがわかります。
大方丈の広縁に腰を降ろし、眺める曹源池庭園は、白砂と松の緑、緩やかな汀(みぎわ)が作り出す日本古来の州浜景観と、その奥に深山幽谷を思わせる巨石を配した大陸的な山水景観が見事に調和し、力強さの中に繊細な趣を醸し出しています。因みに、曹源池庭園は日本で最初に史跡の特別名勝に指定されたことでも知られています。
開創精神に即する漱石の行い
天龍寺の開創精神のひとつに「怨親平等(えんしんびょうどう)」があります。この言葉には、敵であろうが、味方であろうが、差別することなく等しく接するという意味なのですが、疎石が尊氏に敵である後醍醐天皇の菩提の弔いのために天龍寺の創建を進言したことは、まさにこの言葉通りなのです。波瀾万丈の人生を歩んだ後醍醐天皇ですが、きっと今は天皇家ゆかりの地に慰撫され、安堵されていることでしょう。
天龍寺(霊亀山天龍資聖禅寺):京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 TEL : 075-881-1235
※夢窓疎石に関しては『夢窓疎石 〜“国師”の称号を与えられた高僧は優れた作庭家でもあった』もご覧下さい。
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