一休宗純 〜とんちで知られる一休さんの生涯

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京都府の南部に位置する京田辺市。その京田辺市に広がる甘南備山(かんなびやま)の麓に臨済宗大徳寺派の寺院「酬恩庵(しゅうおんあん)」があります。

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このお寺の名前を知る人は恐らく少ないかと思いますが、別名を聞くと一気に親しみが湧いてくると思います。その別名とは「一休寺(いっきゅうじ)」。もうおわかりですよね。このお寺はとんちで知られる一休さんが晩年の25年間を過ごしたお寺なのです。

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今回は室町時代の破戒僧と呼ばれ、“一休さん”の愛称を持つ「一休宗純(いっきゅう そうじゅん)」の話をしましょう。

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天皇のご落胤

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酬恩庵の総門から続く石畳を敷いた上り坂の参道を上りきると、そこに宮内庁が管理する陵墓があります。菊文の透かし彫りが施された門扉が閉ざされていて、中に入ることはできませんが、この陵墓には88年の波瀾万丈の生涯を送った一休禅師が眠っています。

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室町時代の禅僧、一休禅師。名は宗純、幼名は千菊丸(せんぎくまる)。この幼名からして両親は高貴な人物であることがわかりますが、父親は南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇。母親は藤原一族の日野中納言の娘、伊予の局(いよのつぼね)。つまり、一休禅師は後小松天皇のご落胤で、天皇の血筋を受け継いでいることから、お墓も宮内庁が管理しているというわけです。

後小松天皇の寵愛を受けた伊予の局は千菊丸を身籠もると、皇位の継承を妬んだ人たちによって宮廷を追われ、南北統一から2年経った1394(応永1)年1月1日に、嵯峨の民家で人知れず千菊丸を産みました。その後、千菊丸が政争に巻き込まれることを恐れた伊予の局は、1399(応永6)年に5歳になった千菊丸を臨済宗の安国寺に入れ、出家させたのです。

法名“宗純”の誕生

1410(応永17)年、16歳になった千菊丸は地位や金銭に執着して堕落していく修行僧の姿に絶望し、11年間修行に励んだ安国寺を去り、学問に秀で、徳に優れた西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおう そうい)の元に弟子入りし、宗純と名乗りました。この“宗純”という名前は、この時、謙翁和尚から和尚自身の名である“宋為”の“宋”の1字を譲り受けて付けられた法名です。

その4年後、宗純が20歳の時に謙翁和尚が病でこの世を去ると、宗純は悲しみの余り、後を追って瀬田川に入水自殺を図りました。

幸いにして助けられ、命は取り留めましたが、このような行為に及んだということは、よほど一休は謙翁和尚を慕っていたのでしょう。

「一休」という名の由来

「一休」というのは“号”、つまり、僧侶や学者、文人などが本名とは別に付ける呼び名のことですが、この「一休」という号は、宗純が詠んだ、ひとつの歌に由来しているのです。

謙翁和尚を失った一休は、自殺を図った翌年、滋賀の堅田にある祥瑞庵の門を叩き、高僧・華叟宗曇(かそう そうどん)に師事しました。

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宗純が24歳になった時のことです。瞽女(ごぜ:盲目の女芸人)が語る「平家物語」を聞いて無常観を感じた一休は、その時の気持ちを歌に詠みました。

「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み  雨ふらば降れ  風ふかば吹け」(人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことではない)

この歌を聞いた華叟禅師は、歌の中にある“一休み”という言葉を宗純に授け、「一休」が宗純の号となったのです。「一休」と聞くと、漫画やアニメの影響からか小坊主姿の「一休さん」を思い浮かべてしまいますが、「一休」という呼び名が付けられたのは、宗純が立派な大人になってからのことだったのですね。

庶民に教えを説いた一休

その後も一休は禅の道を邁進し、その姿勢から華叟は一休を後継者として認め、悟りの証明である“印可(いんか)”を授けようとしました。しかし、権威を嫌う一休はこれを受け取りませんでした。禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきと考えた一休は、地位も名誉も必要とせず、身形すら気に掛けなかったのです。そのために周囲からは奇異な目で見られることも度々で、大徳寺7世の追悼法要の時にも、ボロ布をまとっただけの姿で参列し、人々を驚かせました。この頃から一休は“奇人”だと言われるようになりました。

34歳になった一休は、師である華叟禅師が亡くなったことを切っ掛けに、1人でも多くの人に仏教の教理を分かりやすく説くために、近畿一円を転々と説法行脚して回りました。真の仏教とは何かを追求し、庶民に教えを説きながら、各地を旅した一休。次第に庶民の間で一休の人気は高まり、ついには生き仏とまで称せられるようになったのです。

親交が深かった人物とは?

1456(康正2)年、一休が62歳の頃、尊敬する臨済宗の高僧・大応国師(だいおうこくし)が創建した妙勝寺が兵火に焼かれ荒廃してしまっていたところ、一休は恩返しのためにと修復を行い、ご恩に報いるとの意を込めて新たに酬恩庵として再興しました。以降、この酬恩庵が一休の活動の拠点となり、多くの宗教家や文化人が一休を慕って訪れたそうです。その中でも特に親交が深かった人物が、浄土真宗の中興の祖である蓮如(れんにょ)上人です。

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蓮如上人は一休よりも19歳も年下でしたが、その年の差や宗派を超えて、互いの思想に敬意を払い、認め合っていたと言われています。宗派が違えば排斥しあう世に、一休はこんな歌を残しています。

「分け登る ふもとの道は多いけど 同じ高嶺の月をこそ見れ」(真理の山に向かう道はそれぞれ違うが、同じ行き先を私たちは見ているんだな)

この歌からしても、一休は器の大きな人物だったことがわかりますね。

一休が愛した女性

1467(応仁1)年、京都の町を焼き尽くした「応仁の乱」が起こりました。一休は戦火から逃れ、大坂(現・大阪)に避難していましたが、その大坂で一休は、ひとりの女性に出会います。その女性とは、鼓を打つ盲目の美しい旅芸人・森侍者(しんじしゃ)。この時、一休は76歳で、森侍者の年の頃は20代後半。年齢に50歳ほどの開きがありましたが、一休は彼女に惚れ込んでしまいました。その時の気持ちを詩集『狂雲集』に残しています。

「その美しいえくぼの寝顔を見ると、腸(はらわた)もはちきれんばかり…、楊貴妃かくあらん」

一休の気持ちは彼女に伝わり、2人はまだ戦火が収まらない京都に戻り、一休がこの世を去るまでの間、酬恩庵で同棲生活を送ったのです。

大徳寺 第47代住職に任命された一休

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一休が81歳の時、応仁の乱によって荒廃した大徳寺の復興のために、第47代の住職に就きました。長年、権力を嫌っていた一休ですが、天皇の勅命であったため断ることができなかったのです。野僧だった一休が何故、住職に任命されたかと言うと、それは民衆に絶大な人気のある一休の名を利用して、大徳寺再建の為の資金を集めようとする朝廷の策略だったのです。

朝廷の考えは見事に的中し、一休の人気の元に武士や商人、茶人や庶民からも膨大な資金が集まり、5年後に大徳寺の法堂が再建されたのです。因みに朝廷の策を最初から見抜いていた一休は、住職というのは肩書きだけで、実際には一度も大徳寺に住むことはなく、愛する彼女とともに粗末な小屋で生活を続けたそうです。

人間味溢れる男、一休

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1481(文明13)年の大燈国師の命日に、マラリアに罹った一休はこの世を去りますが、その時「一休の禅は、一休にしか分からない。朦々淡々(もうもうたんたん)として60年、末期の糞を晒して梵天に捧ぐ」という辞世の句を残しました。何とも強烈な辞世の句です。

そして、臨終の言葉は「死にとうない」だったとか…。禅の道を極め、悟りを得た高僧には相応しくない言葉ですが、一休の88年間の波乱に満ちた人生を思えば、一休らしい最期の言葉だったと言えるのではないでしょうか…。

生涯を通じて鋭く社会を批判し、名声利欲にとらわれず、庶民の中に分け入り、禅の民衆教化に尽くした一休。禅僧でありながら、女性を愛し、肉を喰らい、酒を呑み、頭も剃らず、権威に反発し、弱者に寄り添い、民衆とともに、笑い、泣き、生きた一休は、なんとも人間味溢れる男だったのです。

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酬恩庵一休寺:京田辺市薪里ノ内102 TEL : 0774-62-0193

(写真・画像等の無断使用は禁じます。)

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